理学部生物学科

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化学的ストレス

1.はじめに

 私達が暮らしている環境には、さまざまな化学物質が存在します。化学物質が生活を便利で豊かなものにしてくれるのは結構なことですが、健康に悪影響を及ぼす可能性を秘めていることも否定出来ません。第2次世界大戦で焦土と化した日本は、短期間で復旧を果たしただけでなく、めまぐるしい発展を遂げました。その間に発生した公害も世界的に知られるようになり、公害大国の汚名を被りました。実際、化学物質が引き起こした健康被害の例は枚挙に暇がありません。しかし、その後、日本は環境改善の取り組みによって汚名返上を成し遂げました。1990年代終わり頃からは、「内分泌撹乱物質」が問題視されるようになり、メディアは「環境ホルモン」として頻繁に取り上げました。ところが、最近では全く話題に上らなくなっています。身の回りの化学物質を悪戯に危険視するのはナンセンスです。しかし、それらの健康影響については正確な情報が必要不可欠であり、そのためには粛々と分析を続ける必要があります。今回は、このような化学物質によるストレスについて考えてみたいと思います。

2.化学的ストレス

図1 ハンス・セリエ
モントリオール大学の名誉教授ハンス・セリエのポートレート写真(Portrait photographique d’Hans Selye, professeur émérite à l’Université de Montréal. 撮影者:Jean-Paul Rioux, 出典:Wikimedia Commons)

 1936年、ハンス・セリエ(図1)が29歳の時にNature誌に発表した論文「各種の有害因子によって引き起こされる症候群」は、いわゆるストレス学説として、今も引用され続けています。この学説では、生体が外部から刺激を受けて心身が歪んだ状態のことを「ストレス」、ストレスを引き起こす刺激のことを「ストレッサー」と定義しています。今日、私達はストレッサーのことをストレスと呼んでいるわけです。ストレスというと、先ず思い浮かぶのは精神的なもの、つまり、人間関係のトラブル、精神的な苦痛、怒り・不安・憎しみ・緊張等であると思います。しかし、その他にも、物理的、生物的、および化学的なストレスが生体に大きな影響を与えています。物理的ストレスは寒冷・高温、騒音や放射線等を、生物的ストレスは感染や炎症等を含みます。化学的ストレスには、薬物や大気汚染の他、酸素の欠乏や過剰、栄養不足等があります。このように、私達は想像以上に多種多様なストレスに囲まれて生きているのです。化学的ストレスのうち、酸素や栄養の過不足等は私達の意思によって速やかにコントロール可能な場合が多いものの、環境中の化学物質を取り除くことは一朝一夕に出来るものではなく、実際に多くの健康被害を引き起こしました。

3.公害

 工業が非常に重要な産業であることに異論はありません。しかし、特に第2次世界大戦後の高度経済成長期(1950年代後半~1970年代)には、さまざまな化学的ストレスが健康被害を生みました。「公害」という言葉は明治時代に使われ始めたそうですが、1993年の環境基準法での定義は、「環境の保全上の支障のうち、事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる大気の汚染、水質の汚濁(水質以外の水の状態または水底の底質が悪化することを含む)、土壌の汚染、騒音、振動、地盤の沈下(鉱物の掘採のための土地の掘削によるものを除く)および悪臭によって、人の健康又は生活環境(人の生活に密接な関係のある財産並びに人の生活に密接な関係のある動植物及びその生育環境を含む)に係る被害が生ずること」となっています。その後、福島第一原子力発電所の事故が契機となり、2012年には放射性物質も公害物質に位置づけられています。このように、公害の原因には化学的および物理的ストレスが混在しています。

3-1. 四大公害病:化学的ストレスの中でも特に被害が大きかったのが四大公害病です。
水俣病:1956年頃から熊本県水俣湾で発生しました。当時、工業排水が水俣湾に排出されており、そこに含まれていたメチル水銀化合物(有機水銀)が魚介類の食物連鎖により生物濃縮されました。この魚介類を摂取した住民の一部にメチル水銀中毒症(中毒性中枢神経系疾患)が認められました。主な症状は、四肢末梢神経の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、聴力障害、平衡機能障害、言語障害、手足の震え(振戦)です。水俣病は、環境汚染の食物連鎖で起きた人類史上最初の病気といわれていると共に、日本の高度経済成長期に発生した「公害の原点」ともいわれています。
第二水俣病:1964年頃から新潟県阿賀野川下流域で発生しました。有機水銀による河川の汚染が原因で、魚類の食物連鎖を介して健康被害が起きました。症状は水俣病と同様であることから、新潟水俣病とも呼ばれています。
四日市ぜんそく:1960年~1972年頃に三重県四日市市およびその周辺で起きた集団ぜんそく障害で、四日市コンビナートから発生した大気汚染が原因でした。石油は石炭よりクリーンなエネルギーと考えられていましたが、硫黄酸化物を多く含んでおり、工場から排出された硫黄酸化物が呼吸器疾患を引き起こしました。慢性閉塞性肺疾患(気管支ぜんそく、ぜんそく性気管支炎、慢性気管支炎、肺気腫)であり、息苦しく、喉が痛み、激しいぜんそく発作が起きました。ひどい場合には呼吸困難から死に至りました。
イタイイタイ病:1910年代~1970年代前半に富山県神通川流域で発生しました。岐阜県の鉱山における製錬に伴う未処理廃水に含まれていたカドミウムが原因で発生した疾患で、日本初の公害病です。病名は、患者が「痛い、痛い」と泣き叫ぶことしか出来なかったことに由来しており、1955年に初めて病名として報じられました。主な特徴は、多発性近位尿細管機能異常症と骨軟化症で、長期の経過をたどる慢性疾患です。患者は、カドミウム汚染地域に長年住み、この地域で生産された米や野菜の摂取や、汚染水の飲用等の生活歴を有することが分かっています。

3-2. その他:上記の他にも、ダイオキシンをはじめとする数多くの化学物質が公害につながったことは周知の事実です。化学的ストレスによる健康被害としては、公害の範疇には入らないものの、サリドマイドやスモン等による薬害や、ポリ塩化ビフェニル(PCB)によるカネミ油症等の食中毒が起きています。

4.内分泌撹乱物質(環境ホルモン、環境化学物質)

 1962年にレイチェル・カールソン著「沈黙の春」が出版され、1960年代後半には、DDT等がホルモンのような作用をする可能性が指摘されていましたが、1997年にシーア・コルボーンらが「奪われし未来」を出版した頃から、内分泌撹乱物質(環境ホルモン)が注目されるようになりました。環境改善を進めていた日本では、1998年5月に環境庁(現、環境省)が「環境ホルモン戦略計画 SPEED '98(Strategic Program for Environmental Endocrine 1998)」を発表し、「内分泌撹乱作用を有すると疑われる化学物質」67種をリストアップしました。この対応は実に驚くべき速さでした。2003年の政府見解によれば、内分泌撹乱物質は「内分泌系に影響を及ぼすことにより、生体に障害や有害な影響を引き起こす外因性の化学物質」と定義されています。これらの物質は、樹脂やその可塑剤、農薬等、ごくありふれたものが多く、建材や家具類等、至る所に存在しています。また、大気や公共用水域に排出されていることも分かっており、私達は毎日曝露されています。したがって、メディアは頻繁に環境ホルモンを取り上げ、社会不安が高まっていきました。
 SPEED ‘98に伴い、政府は多額の予算を投入したことから、環境ホルモン研究は文字通りスピード感をもって行われました。1998年には日本内分泌撹乱化学物質学会(環境ホルモン学会)が発足し、毎年、研究発表会が国際学会と共に行われるようになりました。この研究領域において、日本は世界をリードしていたのです。当時、環境ホルモン候補物質が野生動物、特に貝類、魚類、両生類等の生殖器に及ぼす影響を調べる研究者が多く、性転換を生じることを示す結果が一躍脚光を浴びました。しかし、データが蓄積されるにしたがい、ほとんどの物質は哺乳動物に対して有意な影響を及ぼさないという知見が報告されるようになり、環境省は2005年に上記リストを取り下げました。したがって、私もここからは「環境ホルモン(候補物質)」ではなく「環境化学物質」と記します。環境化学物質が生殖器に及ぼす影響が注目されたのは、当時、少子化問題やヒト精子濃度の低下が物議を醸していたことから、無理もありません。しかし、その他の影響に関する疑問は解決されていないにも関わらず、日本では環境化学物質の研究に終止符が打たれました。ただし、化学物質過敏症などの類似研究は行われています。

5.環境化学物質と脳の発達

 内分泌系の変化は脳に影響を及ぼすため、環境化学物質が少子化に影響を及ぼしていないとしても、脳に作用する可能性は考えられます。そこで私達は、2002年頃から国立環境研究所の石堂正美博士(大学院時代の同級生)と共同研究を始めました。環境化学物質には脂溶性のものが多く、摂取された場合に脳へ移行する可能性があります。環境ホルモン学会においても、実験動物の母親に環境化学物質を混ぜた餌あるいは水を与えた場合、その仔に行動異常が認められることが報告され、環境化学物質が発達障害の病因である可能性が疑われました。しかし、当時、母親を介して仔の脳に移行する化学物質の量は不明でした。そこで私達は、一定量の環境化学物質を新生仔の脳に注入した場合の影響を調べるといった、いわゆる薬理学的方法を試みました。予備実験の結果、動物に多動が認められたことから、発達障害のうち多動性障害に着目しました。今回、先ず発達障害について述べた後、環境化学物質が脳に及ぼす影響に関する私達の研究の一部を紹介したいと思います。
5-1. 発達障害
 発達障害のうち、注意欠如多動性障害や自閉症スペクトラム障害は、幼児期から学童期にかけて多動や注意力障害を示し、成人してからもコミュニケーションの困難さを有するという特徴をもっています。両障害とも、その病因は明らかになっていません。また、いずれも言動観察によって診断されますが、世界的に影響力の強い診断基準である世界保健機構(WHO)の「疾病及び関連保健問題の国際統計分類、略称:国際疾病分類(ICD)」とアメリカ精神医学会の「精神障害の診断・統計マニュアル(DSM)」の内容は若干異なっています。また、両者とも改訂を重ねており、ICDは2018年に11版(ICD-11)を、DSMは2013年に5版(DSM-5)を出版しています。したがって、発達障害の診断や有病率の変遷については、若干複雑な様相を呈していることは否めません。
注意欠如多動性障害(Attention-Deficit Hyperactivity Disorder, ADHD):ADHDは通常7歳までに認められ、「多動性」、注意力障害」、「衝動性」を特徴とする障害です。周囲の人が望まない時や場所で多動を示すという質的な問題があります。この障害は「微細脳(機能)障害(MBD)」と呼ばれた時代もありましたが、1994年からは、DSM-4に基づいてADHDと呼ばれています。診断が言動観察に基づくため、学習障害(LD)等の障害による症状の混入は避けられません。ADHDの有病率は、WHOの調査によると、世界全体で成人の3.4%(国により1.2〜7.3%)といわれています。DSM-5では、ほとんどの文化圏で子供の約5%、成人の約2.5%であり、男:女比は子供で2:1、成人で1.6:1となっています。日本のADHD有病率に関する明確なデータはありません。2012年の文部科学省による実態調査によると、全国の公立小・中学校の通常学級に在籍する児童生徒のうち、学習面または行動面で著しい困難を示す児童生徒(ADHDをはじめとする発達障害が疑われる子供)は6.5%にのぼっています。2002年には6.3%だったことから、10年間ほとんど差が無いようです。ADHD者が示す多動や注意欠如は、中枢神経系刺激剤によって改善する場合があります。この逆説的薬理作用のメカニズムは未だ分かっていませんが、米国では中枢神経系刺激剤であるルメチルフェニデート(商品名:リタリン、コンサータ)が繁用されています。日本では、除放剤であるコンサータが処方されます。この他にも、対症療法として脳代謝改善薬や抗鬱薬、抗てんかん薬、抗精神病薬等の薬剤が用いられています。
自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorder, ASD):自閉症は通常3歳までに確認される障害で、「社会的相互交渉の質的障害」、「コミュニケーション機能の質的障害」、「活動と興味の範囲の著しい限局性(幅が狭く常同反復的)」が特徴です。IQが70以下の場合は知的障害があるものとして低機能自閉症やカナー症候群と呼ばれ、知的障害がないものは高機能自閉症やアスペルガー症候群と呼ばれました。言語の遅滞が顕著なものをカナー症候群、軽微なものをアスペルガー症候群という場合もありました。しかし、自閉症は軽度から重度までの間に明確な境界がないため、現在ではASDと呼ばれています。ASDの有病率は、国によってほとんど差が無く約1%であり、男:女比は5:1といわれています。有病率の推移を把握することは困難です。例えば、ICD-10とDSM-4では、広汎性発達障害(PDD)の中に自閉症、アスペルガー症候群、および特定不能のPDD等が含まれていましたが、DSM-5では細かい分類を廃し、ASDに包括されました。診断の要件についても、DSM-4では社会性の障害、コミュニケーションの障害、およびこだわりの3つの特性が揃っているか否かで診断されましたが、DSM-5では社会的コミュニケーションの障害とこだわりの2つに変更されています。早期発見、早期療育が基本ですが、対症療法として抗精神病薬をはじめとする精神科領域のほとんど全ての薬剤が用いられています。
ADHDとASDの合併症:ADHDとASDは異なった障害ですが、診断基準である言動の次元が異なっていることから、2つの症状を合併している場合があります。実際、ASDでも幼児~学童期には多動や注意力障害が認められます。DSM-4では、ADHDとPDDの両方が疑われる場合はPDDを優先して診断し、ADHDの診断は省略されていました。しかし、DSM-5では、こだわりの中に感覚過敏や鈍麻が含まれるようになり、ADHDとASDが併存していると診断出来るようになっています。両障害に同一の薬剤が有効な場合があることも、共通した脳内機序を示唆しています。

5-2. 環境化学物質が脳の発達に及ぼす影響
 私達は、環境化学物質を仔ラットの脳に投与した場合の影響を解析した結果、フェノ−ル類、フタル酸エステル類の中には、発達障害児と同様の行動異常を引き起すものがあることを見いだしました1-3)。この研究結果を少し詳しく紹介したいと思います。
多動性障害モデル動物:中枢神経系刺激剤が多動性障害児の症状を改善することから、私達は、運動の調節に重要な役割を果たしている大脳基底核のドーパミン(DA)神経について調べることにしました。先ず、発達障害モデルラット4)の解析を行いました5)。生後5日齢の雄性ラットにデシプラミンを腹腔内投与してノルアドレナリンの取り込みを遮断した後、カテコールアミン神経の選択的神経毒である6-ヒドロキシドーパミン(6-OHDA)を100 µg脳内投与しました。8週齢の脳切片を作製し、カテコールアミンの律速合成酵素であるチロシン水酸化酵素(TH)の免疫組織化学染色を行った結果、6-OHDAは染色性を低下させた(図2)ため、DA神経の発達は阻害されたことが確認されました。
図2 幼弱期6-OHDA投与ラットのTH免疫組織化学

図2 幼弱期6-OHDA投与ラットのTH免疫組織化学
 生後5日齢のラットに6-OHDAを脳内投与した後、8週齢で脳の切片を作製してTH免疫組織化学染色を行いました。コントロールの中脳(腹側被蓋野と黒質緻密部)に強いTH陽性細胞が観察されました(左図の四角部分)。四角部分を拡大した画像を右側に示します。6-OHDAはTHの染色性を著しく低下させました。

 次に、ラットの行動解析を行いました。ラットは夜行性のため、行動量を24時間測定したところ、ヒトの学童期に相当する4週齢では、6-OHDA投与ラットの行動量がコントロールより有意に多くなっていました(図3)。この結果は、6-OHDAが多動を引き起こしたことを示唆するものです。

図3 幼若期6-OHDA投与ラットの行動量
 4週齢の行動量を12時間毎の明暗条件下で測定しました。A:2時間毎の行動量の平均値±標準誤差(n=匹数)。24時間の行動量は2群間に有意差が認められました(反復測定ANOVA)。B:暗期(濃色)および明期(明色)の行動量。6-OHDA投与は、暗期の行動量を有意に増加させました(Student’s t-test)。

環境化学物質が脳の発達に及ぼす影響:多動性障害モデル動物の作製と同様の方法で、5日齢の雄性ラットに環境化学物質87 nmol(ビスフェノールAの場合20 µg)を脳内に注入しました。行動量を測定した結果、ビスフェノールA、ノニルフェノール、p-オクチルフェノール、フタル酸ジエチルヘキシル投与群は、4~5週齢の暗期と明期で有意な多動を示しました(図4)。また、ビスフェノールAは、0.87~87 nmolの間で用量依存的に多動を引き起こすことが分かりました(図5)。0.87 nmolのビスフェノールAは0.2 µgなので、2 gの10,000,000分の1という微量で有意な変化を生じたことになります。

図4 幼若期環境化学物質投与ラットの行動量
 4週齢の行動量を図1と同様に測定しました。環境化学物質投与群は、いずれも暗期と明期で有意な多動を示しました(反復測定ANOVA)。

図5 幼弱期ビスフェノールA投与ラットの行動量
 4週齢の行動量を図1と同様に測定しました。ビスフェノールAの0.87~87 nmolは、暗期と明期の行動量を有意に増加させました(反復測定ANOVA)。

 TH免疫組織化学染色を行ったところ、ビスフェノールA(図6)およびノニルフェノール、p-オクチルフェノールは染色性を低下させることが判明しました。この結果は、これらの化学物質が6-OHDAと同様にDA神経の発達を阻害するものであることを示唆しています。しかし、多動は明期にも認められたので、フェノール類はDA以外の神経の発達にも影響する可能性が考えられます。また、フタル酸ジエチルヘキシルはTH免疫染色性を変化させなかったため、DA神経の発達は阻害しないようですが、暗期、明期共に多動を生じたことから、DA神経以外の運動量調節メカニズムが関与していると考えられます。

図6 幼弱期ビスフェノールA投与ラットのTH免疫組織化学
 生後5日齢のラットにビスフェノールAを脳内投与した後、図2と同様にTH免疫組織化学染色を行いました。ビスフェノールAはTHの染色性を著しく低下させることが明らかになりました。

 さらに、DA神経の細胞体が多く存在する中脳、および神経終末を最も多く含む線条体を摘出し、DNAアレイを用いて遺伝子発現を網羅的に解析しました。6-OHDA処置群では、8週齢の中脳でDAトランスポーターおよびDA受容体D4の遺伝子発現が増加していました。この結果は、同様の処置ラットにおけるD4受容体密度の増加6)やADHD脳におけるDAトランスポーターの発現亢進7)を支持するものです。この他にも多数の遺伝子が発現変化を示しましたが、環境化学物質による遺伝子発現変化は6-OHDAによる変化とパターンが全く異なっており、化学物質間にも相違が認められました。したがって、環境化学物質はDA神経だけでなく、他の神経にも影響を及ぼすと考えられ、暗期だけでなく明期にも多動を示すことに関与していると思われます。発達障害者は睡眠障害を示す場合があるため、環境化学物質投与ラットは、重要な発達障害モデルである可能性が考えられます。以上は環境化学物質の影響評価の一例ですが、ニトロトルエンやフタル酸ジシクロヘキシル等もDA神経の発達を阻害し、多動を引き起こすことが分かりました8, 9)。
 妊娠中および授乳中に母親ラットが環境化学物質を摂取した場合、仔ラットに行動異常が認められるとの報告があります10)。その実験系は自然界で起きている現象に近いのですが、母体に生じた変化による影響と仔に移行した化学物質による影響が複合している可能性があり、行動異常の原因は複雑なものと考えられます。私達は、幼若ラットの脳が環境化学物質に曝露された場合の行動と神経の発達に変化が生じることを見出しました。この結果から直ちに、環境化学物質が発達障害の病因であるとはいえません。しかし、幼若期には血液-脳関門が未熟であること、および環境化学物質には脂溶性のものが多いことから、脳が環境化学物質に曝露される可能性は充分考えられます。環境省によると、ヒトのビスフェノールA曝露量は、大気、飲料水、食物等の媒体を総合した予測最大量が0.09 µg/kg/dayであることから11)、体重50 kgの場合は1日最大4.5 µgになります。したがって、ラット仔の脳に影響を及ぼした0.2 µgが現実離れした数字ではないことが分かります。ヒトの化学物質曝露量について詳細を知りたい方は、環境省のウェブサイト12)を参照して下さい。

6.おわりに

 1980年代の終わり頃、パリでセーヌ川の水質について議論していた際、フランス人から「日本はもっと環境汚染が酷いはずだ。」と言われたのを覚えています。私は現状について説明しましたが、外国に関する誤解/曲解は、実際にその国を訪れなければ解決し難いものです。今では環境先進国/環境大国と呼ばれるようになった日本の素晴らしい環境は、公害問題等から多くを学び、真摯に対策を講じてきた先人の努力の賜物です。無論、環境改善の契機となった多くの犠牲者の存在を忘れてはなりません。この環境を守るためには、時流に流されることなく客観的かつ多角的な解析を実行し、常に現状を正しく把握する必要があります。動物実験の結果が健康影響の可能性を示唆する場合には、ヒトでないことを理由に目を背けてはいけないと思います。皆が同一方向を向いていては問題解決が困難であると共に、危険であることを歴史は教えています。多様性が重要なのであり、研究領域の裾野は広い方が科学の進歩につながると思います。環境化学物質研究で日本に遅れをとっていた欧米は、今なお研究を継続しており、2010年、世界に先駆けてビスフェノールAを有害物質に指定したのはカナダでした。ただし、全て欧米が良いといっているわけではありません。我が国の厚生労働省は、2008年、ヒトに対するリスク評価が判明する前であるにも関わらず、「リスク評価を経るまでもなく、公衆衛生の見地からは、ビスフェノールAの曝露を出来る限り減らすことが適当である」として、関係事業者に自主的取り組みを要請すると共に、妊娠/育児中に注意すべき情報を提供しています13)。この対応の特筆すべき点は、国際的動向を含めた国内外の情報収集に努め、社会不安を煽らないように配慮していることです。日本で研究が収束したのは残念ですが、過去の研究が無駄にはなっていなかったようです。
 最後に、最近特に問題になっている地球温暖化は物理的ストレスですが、その原因は二酸化炭素であることから、化学的ストレスともいえます。今回は地球温暖化に触れませんでしたが、そのおかげで日本は再び環境への配慮が足りない国と認識されつつあります。生きている以上、ストレスだらけです。

引用文献

  1. Ishido M, Masuo Y, Oka S, Kunimoto M, Morita M. Bisphenol A causes hyperactivity in the rat concomitantly with impairment of tyrosine hydroxylase immunoreactivity. J Neurosci Res. 76 (2004) 423-433.
  2. Masuo Y, Ishido M, Morita M, Oka S. Effects of neonatal treatment with 6-hydroxydopamine and endocrine disruptors on motor activity and gene expression in rats. Neural Plast. 11 (2004) 59-76.
  3. Masuo Y, Morita M, Oka S, Ishido M. Motor hyperactivity caused by a deficit in dopaminergic neurons and the effects of endocrine disruptors: a study inspired by the physiological roles of PACAP in the brain. Regul Peptides 123 (2004) 225-234.
  4. Shaywitz BA, Yager RD, Klopper JH. Selective brain dopamine depletion in developing rats: an experimental model of minimal brain dysfunction. Science 191 (1976) 305-308.
  5. Masuo Y, Ishido M, Morita M, Oka S, Niki E. Motor activity and gene expression in rats with neonatal 6-hydroxydopamine lesions. J Neurochem. 91 (2004) 9-19.
  6. Zhang K, Tarazi FI, Davids E, Baldessarini RJ. Plasticity of dopamine D4 receptors in rat forebrain: temporal association with motor hyperactivity following neonatal 6-hydroxydopamine lesioning. Neuropsychopharmacology 26 (2002) 625-633.
  7. Krause KH, Dresel SH, Krause J, Kung HF, Tatsch K. Increased striatal dopamine transporter in adult patients with attention deficit hyperactivity disorder: effects of methylphenidate as measured by single photon emission computed tomography. Neurosci Lett. 285 (2000) 107-110.
  8. Ishido M, Masuo Y, Oka S, Niki E, Morita M. p-Nitrotoluene causes hyperactivity in the rat. Neurosci Lett. 366 (2004) 1-5.
  9. Ishido M, Masuo Y, Sayato-Suzuki J, Oka S, Niki E, Morita M. Dicyclohexylphthalate causes hyperactivity in the rat concomitantly with impairment of tyrosine hydroxylase immunoreactivity. J Neurochem. 91 (2004) 69-76.
  10. Kubo K, Arai O, Omura M, Watanabe R, Ogata R, Aou S. Low dose effects of bisphenol A on sexual differentiation of the brain and behavior in rats. Neurosci Res. 45 (2003) 345-356.
  11. ビスフェノールA, 化学物質の環境リスク評価 第3巻, 環境省環境保健部環境リスク評価室, 2005年9月(https://www.env.go.jp/chemi/report/h16-01/pdf/chap01/02_2_15.pdf).
  12. 化学物質の環境リスク初期評価関連, 環境省(https://www.env.go.jp/chemi/risk/index.html).
  13. ビスフェノールAについてのQ&A, 厚生労働省食品安全部基準審査課, 2008年7月(https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/kigu/topics/080707-1.html).

神経科学研究室 増尾 好則

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