理学部生物学科

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香りがストレスを抑制する?不眠ストレスに対するコーヒーアロマの癒し効果

ストレス研究

生物は、生きている限りストレスの影響を無視できません。ストレスが高じて精神疾患発症に至ることが経験的に知られていますが、その脳内メカニズムはあまり分かっていません。私達は、様々なストレスが動物の脳に及ぼす影響を行動科学、解剖学、生化学、薬理学、分子生物学等の技術を駆使して解析しています。不眠ストレスによって慢性疲労症候群やうつ病に至る過程について研究している時、ソウル大学の大学院生で食品科学を専攻していたHan-Seok Seo君(現在、ドレスデン大学医学部)が私達のもとを訪れました。彼は「コーヒーの香りを嗅ぐと胃潰瘍を生じ難くなるので、脳にもストレスの癒し効果があると思われます。是非、脳について共同研究をさせてほしい。」というのです。確かに、ストレス研究というと、疾患に至るまでの変化、つまりマイナス面の解析が注目されがちで、ストレスを抑制する方法に関する研究はあまり行われてきませんでした。そこで、私達は、ストレスが脳に及ぼす影響に対するコーヒーアロマの効果を調べてみることにしました。
左:成熟ラット、右:焙煎済みのコーヒー豆。実験には、挽いた直後に用いた。
図1 左:成熟ラット、右:焙煎済みのコーヒー豆。実験には、挽いた直後に用いた。

どのような研究を行ったのか

コーヒーは、いうまでもなく世界中で親しまれている嗜好飲料です。日本のコーヒー輸入量は世界第3位になっているそうです。コーヒーの効用については、古くから研究が行われてきましたが、そのほとんどはカフェイン等の不揮発性成分に関するもので、焙煎されたコーヒー豆の香りに注目した例はほとんどありませんでした。私たちは、コーヒーの香りを経験したことがない成熟ラット(図1左)を4種類の条件(対照群、ストレス負荷群、コーヒーアロマ群、ストレス負荷+コーヒーアロマ群)で24時間飼育した後、脳を摘出して遺伝子と蛋白質の発現解析を行いました。コーヒー豆の種類は多いのですが、その香りがヒトおよびラットから最も好まれるといわれているコロンビア産を選び、焙煎したコーヒー豆(図1右)を挽いた直後に実験に使用しました。

香りによる脳内物質の発現変化

17種類の遺伝子発現を調べたところ、コーヒーアロマ群では全遺伝子のmRNA発現量が、ストレス負荷+コーヒーアロマ群では13遺伝子のmRNA発現量が変化を示しました。2次元電気泳動(図2)では25個のスポットが変化しており、質量分析(LC-MS/MS)によって9個の蛋白質を同定しました。
ストレス負荷+コーヒーアロマ群の全脳の2次元電気泳動例。
図2 ストレス負荷+コーヒーアロマ群の全脳の2次元電気泳動例。
それらの蛋白質は、抗酸化、蛋白質分解、細胞防衛、シグナル伝達、エネルギー代謝に関わっていることが明らかになりました。ストレス負荷+コーヒーアロマ群で発現変化を示したもののうち、NGFR (nerve growth factor receptor), trkC (neurotrophic tyrosine kinase, receptor type 3), GIR (glucocorticoid-induced receptor)などの遺伝子(図3)やチオール特異的抗酸化蛋白質、熱ショック70 kDa蛋白質5などの蛋白質は、抗酸化・抗ストレス作用を有することが知られています。図3に示す通り、ストレスによるこれらの因子の発現変化は、コーヒー豆の香りで抑制されることが分かりました。この研究で明らかになった脳内物質レベルの発現変化は、コーヒーアロマが抗酸化作用やストレス緩和作用をもっていることの科学的な根拠の一部であると考えられます。
ラット脳内遺伝子発現レベル。
図3 ラット脳内遺伝子発現レベル。各遺伝子発現レベルはRT-PCRによって測定した。数字は各群を表す。1. コントロール、2. ストレス、3. コーヒーの香り、4. ストレス+コーヒーの香り。NGFR, fast nerve growth factor receptor; trkC, neurotrophic tyrosine kinase, receptor, type 3; GIR, glucocorticoid-induced receptor.
この研究内容を米国化学会の学会誌Journal of Agricultural and Food Chemistryに発表したところ、香りによる脳内物質の発現変化を明らかにした例は世界でも珍しいということで、学会のホームページAmerican Chemical Society PressPacに掲載されました。すると、直ちにWashington PostやNew York Times等に報道され、世界中から取材の電話がありました。アメリカの放送局National Public Radioに電話で生出演した際は、午前3時にも関わらず「こんにちは」と挨拶した後、矢継ぎ早に質問され、良いストレスになりました。

本研究は、ソウル大学のI.K. Hwang、H.-S. Seoおよび産業技術総合研究所のR. Rakwal、柴藤淳子、平野美里諸氏と共に行ったものです。

神経科学研究室
増尾好則

参考文献

  1. Seo HS, Hirano M, Shibato J, Rakwal R, Hwang IK, Masuo Y. Effects of coffee bean aroma on the rat brain stressed by sleep deprivation: a selected transcript- and 2D gel-based proteome analysis. J Agric Food Chem. 56 (2008) 4665-4673.
  2. 増尾好則. コーヒー豆の芳香によるストレス抑制効果:脳内遺伝子および蛋白質発現の変化. Aroma Research. 9 (2008) 54-61.

報道

  1. Coffee’s aroma kick-starts genes in the brain. American Chemical Society PressPac, June 11, 2008.
  2. Coffee aroma alone 'enough to wake up'. Telegraph, UK, June 11, 2008.
  3. Coffee beans may be newest stress-buster. Washington Post, June 13, 2008.
  4. Just smelling the coffee can wake up genes. New York Times, June 17, 2008.
  5. Waking up to smell the coffee good for brain too, Science Friday, National Public Radio, June 20, 2008. http://www.sciencefriday.com/program/archives/200806201.

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