展示ウラ話—その3 額田晉の「家」

今週末12月3日(金)まで、習志野メディアセンターで出張展示「家庭科学研究所高等部と科学教育—東邦大学理学部の源流」を開催中です。前回のブログに引き続き、展示に関する内容でお送りします。

展示開催にあたって調査をしていた際、『額田晉 自然・生命・人間』(世界観研究会編、1972年)の額田晉の年表内に気になる記述を見つけました。それは1934年に晉が自宅を新築したときのことについてです。
「家庭科学研究所長として模範的の家庭建築を作らうと、文化学院長の建築家西村伊作氏に設計を依頼して建てたものである。(原文ママ)」
家庭科学研究所高等部は、1934年4月に額田晉が校長を務める東京・大森の帝国女子医学薬学専門学校の敷地内に開設された学校でした。実際は研究所長には晉ではなく高良とみ先生が就いていたのですが、やはりこの一文から晉もこの学校に関わる教育者としての意識があったことがうかがえます。

さて、1934年9月に額田晉は西村伊作に自宅の設計を依頼し、大森駅近くの山王に新居を構えています。西村は住環境から「生活改善」に取り組み、さらに従来の封建的な家族制度に基づいた客間中心の間取りではなく、家族平等の思想に基づいて居間中心の間取りを採用した初期の建築家として知られています。また、建築家としてだけでなく、自由主義的な教育を行う「文化学院」創設者としての一面もあり、教育者としての視線も持ち合わせていた人物でした。

西村に設計を依頼した背景には、長男の篤と次女の夏子を亡くした経験が大きく影響を及ぼしたのではないかと考えられます。篤は子守に誤って腐敗した牛乳を飲まされたことをきっかけにその後病弱となり、1922年5月に疫痢を発症して8歳で夭折しました。晉が篤を悼んで作成した小冊子『我子の病歴』(1922年6月、私家版)の中で、「子供をあまりに続けさまに幾人も生んだ為に母親の注意が充分に行き届かなかったこと」と「庭の狭い不健康な家に住んで居た為に運動不足であったこと」の二つが長男の死に繋がったと述べています。

晉の仕事の都合で居を転々とする日々が続いていた大正期は、大都市への人口集中にともなって住宅不足が顕著となり、環境に恵まれた住宅を探すのは困難を極めていた時期でした。また次女の夏子も、自家中毒によって1925年10月に4歳で夭折しています。

さらに、晉は小冊子の中で「子供を健全に養育するためには…(中略)…適度に産児を調節することが最も必要な条件であると私共は深く信じて疑ひません。」と述べており、産児調節に賛同する姿勢をとっていたことも読み取れます。当時、まだ産児調節について公言することがタブー視されていた中での表明でした。

1934年、「家庭科学研究所高等部」という名で、女性が科学的な知識に基づいて生活改善を図ることを目的とした教育機関を額田兄弟が開設したのには、こうした背景も影響していたと考えられます。
(上の画像は額田晉の大森自邸の庭の様子です。ボートを漕ぐ練習ができる池が設置されていたようです。)

※現在、習志野メディアセンターでは学外の方の入館をご遠慮いただいております。学外の方は以下のリンクより展示内容をご覧いただけます。

投稿者:スタッフ

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