展示ウラ話—その4 帝国女子理学専門学校で学んだ人、猿橋勝子
2021年12月13日
習志野キャンパスで12月3日(金)まで開催していた出張展示「家庭科学研究所高等部と科学教育—東邦大学理学部の源流」をご覧いただいた皆さま、どうもありがとうございました。現地で実施していたアンケートも沢山ご回答いただき、その反響の多さに大変驚いています。年明けの2022年1月18日(火)からは、大森キャンパスの資料室でも同内容の展示を開催予定です。(※ご見学は学内関係者を対象としています。)引き続きブログでは「展示ウラ話」として関連情報をお伝えしていきます。
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展示のなかで、現在の東邦大学理学部の前身にあたる帝国女子理学専門学校(以下、理専)で学んでいた人物を3人取り上げました。今日はそのひとり、第1回生として1941年に入学した猿橋先生についてご紹介します。
理専では物理を専攻していた猿橋先生ですが、当時学内には戦争の影響で木造の粗末な実験施設しかなかったため、夏休みには学外の研究所に実習生として派遣されていたそうです。まさに上の画像が理専の校舎でした。このときに猿橋先生の実習先となったのが、後に自らの職場となる中央気象台研究部でした。当時の理専の同級生が軍関係の機関に就職を決めていく中、反戦の態度を貫いた猿橋先生は、当時まだ軍とは無縁であった中央気象台研究部に就職します。このとき、理専の教員から「非国民」という言葉を浴びせられたといいます。(帝国女子理学専門学校設立の背景については下記リンクの企画展ページより「6. 帝国女子理学専門学校の開設 —「科学する心」と戦争」をご覧ください。)
中央気象台研究部では淡水中や海水中の炭酸物質に関する論文を発表し、1957年に東京大学より理学博士の学位を取得しました。また、微量分析の腕が注目され、第五福竜丸が持ち帰った「死の灰」を分析するなど、戦後の女性科学者たちを牽引する存在となりました。
猿橋先生はさらに活躍の場を広げ、1958年には平塚らいてうからの依頼で、ウィーン開催の国際民主婦人連盟第4回大会に参加し、「核実験の人体に対する影響」と題してスピーチを行っています。また、職場を退職した後には、次世代の女性科学者支援のため、1980年に「女性科学者に明るい未来をの会」を創設し、さらに翌年には50歳未満の優れた女性科学者に向けた「猿橋賞」の設立に踏み出しました。
分野を問わず女性の研究者がほんの一握りしかいなかった時代、猿橋先生は多くの障壁にぶつかりながら新しい地平を切り開いていきました。学問に対する熱意、平和への願いを持ち合わせた猿橋先生が、帝国女子理学専門学校の1回生であったことを多くの方に知っていただければと思います。
※学外の方は以下のリンクより展示内容をご覧いただけます。
投稿者:スタッフ
カテゴリー:資料室近状