家庭科学研究所高等部と科学教育 — 東邦大学理学部の源流
場所:東邦大学習志野キャンパス 習志野メディアセンター3階
期間:2021年10月4日(月)~12月3日(金)
【展示会場2】
場所:東邦大学大森キャンパス 額田記念東邦大学資料室
期間:2022年1月18日(火)~3月18日(金)
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【展示会場1】習志野出張展示
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【展示会場2】資料室企画展示
≪概要≫
1941年に帝国女子理学専門学校(現 理学部)が開設してから、今年で80周年を迎えます。本展示では、理学専門学校の前に開設された家庭科学研究所高等部の事例をもとに、生活合理化の動きと女性に対する科学教育との相関を探りながら、東邦大学理学部の源流を辿っていきます。
東邦大学の創立者のひとり額田豊は、大正から昭和期にかけて著書『安價生活法』(政教社、1915年)などの出版を通して、生活合理化推進の一翼を担う存在でした。ドイツ留学時の経験から日本の女性に対する科学教育の必要性を感じていた豊は、間もなくして弟の晉とともに1925年に帝国女子医学専門学校(現 医学部)を創立し、1927年には薬学科(現 薬学部)を併設しました。さらに帝国女子理学専門学校の設立を試みたものの、当時の論調は理学専門学校における女性への科学教育に対して否定的な態度を示し、開設が実現できない状態が続きました。
しかし額田兄弟はこの状況を静観せず、1934年に各種学校に相当する「家庭科学研究所高等部」を大森に開設しています。その背景には、家庭の中で女性が科学的知識に基づいた生活を送り、その知識を子どもへの教育に生かすことが国民の生活水準の上昇につながるという考えがありました。
この研究所高等部について『東邦大学50年史』の中で「この学校は専門学校と違い面白い学校で、程度の高い教養と、実社会における女性指導的な教育が行われた」と回想されています。家庭科学研究所高等部が存在した期間はわずか2年ほどでしたが、年史ではこの学校こそ理学専門学校設立の布石として捉えることができると指摘されています。また、当時の高等部の講師の中には、日本の女性解放運動において重要な役割を果たすなど、社会や文化に影響を与えた人物が含まれていたことも注目に値します。本展示では当時の時代背景なども踏まえて、生活合理化との連関における家庭科学研究所高等部の位置づけを確認する機会になれば幸いです。
1. 女性に “科学的知識” を — 額田兄弟の理想
豊の留学時の経験は、その後1925年に弟の晉(すすむ)とともに東京・大森の地に帝国女子医学専門学校を開設する原動力となりました。額田兄弟は2年後ここに薬学科を併設すると、続いて同敷地内に帝国女子理学専門学校(以下 理専)の開設を試みます。しかし、当時の文部省は理学専門学校における女性への科学教育の必要性を認めなかったため、開校は実現されませんでした。
そのため、文部省への申請が不要な各種学校* として、「帝国女子高等理学校」の開設(1933年4月予定)について東京府へ申請しました。設立理由は「現代家庭生活上の欠陥を稗補する(補う)ため理科を基礎とする科学的家政教育機関を設立せんと欲す」とし、「女子に科学的知識を授け兼ねて婦徳の涵養に努む」ことを目的に定めました。しかし、準備等の都合により開校時期を延期し、校名を「家庭科学研究所高等部」へと変更したうえで1934年4月に開校しました。「花嫁学校」の先駆である「御茶の水家庭寮」が1932年に大日本連合婦人会によって開設されて以来、各地で同様の学校開設が相次いだ時期でもありました。
* 現在、各種学校は授業時数・教員数や施設・設備などの一定の基準(各種学校規程等)を満たしている場合、所轄庁である都道府県知事の認可を受けて設置されます。語学、料理、和洋裁などの学校が含まれます。
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葉書に印刷されたブレスラウでの記念写真
[中段左から3人目、腕を組む額田豊]
(1908年) -
額田豊による直筆原稿「創立当時の思い出話」
(年代不明)
2. 家庭科学研究所および高等部の開設
研究所設立の目的として掲げられたのは「国民生活の根本たる家庭の生活改善発達を図るため家庭科学を研究しその応用普及を図る」ことでした。実際には研究所が機能した痕跡は無く、主に高等部での教育に重点が置かれていましたが、高良はいずれ国立の研究所設立が実現されることを望み、本学の研究所については民間における萌芽として捉えていました。
奇しくも研究所開設から2カ月後の4月には、文部省の外郭団体である大日本連合婦人会と大日本連合女子青年団によって、霞が関の社会教育会館内(当時)に同名の「家庭科学研究所(所長:日本女子大学校第4代校長 井上秀)」が開設されました。本学の研究所との直接的な関係は不明ですが、僅差で2つの「家庭科学研究所」が開設された背景には、女子教育界より科学的知識に基づいた教育が要請されていた様相がうかがえます。
高良とみ〔旧姓 和田〕(1896~1993年)
高良は留学中にウィーンで開催された第3回国際婦人平和自由連盟大会に日本代表として出席して以来、生涯を通じて女性参政権獲得運動や反戦運動などに献身しました。また、夫で精神科医の高良武久は、森田正馬(もりたまさたけ)より森田療法(精神療法)を継承し、東京慈恵会医科大学で教授を務めながら高良興生院を開設した人物です。
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高良とみ(1934年頃)
3. 実習・見学重視の教育
高等部の特色の一つとして、多種多様な授業科目が用意されていたことが挙げられます。経済・児童・住居・衣服などに限らず、医学科と薬学科の教授が兼任した生物学・物理学・化学・衛生学などの授業もあり、生徒は自由に授業を選択することができました。一日のスケジュールは午前に授業を行い、昼食(当番制で食材買出し・調理)ののち、午後は実習・見学が中心でした。見学先は医学科で行われる解剖学実習や、学外の研究所、学校、病院、セツルメント、工場など多岐にわたりました。実習・見学を重視する方針は、生徒により広い世界を見せたいという高良の考えによるものでした。
また、研究所に併設された「ナースリースクール(託児施設)」は、高等部の生徒が実践を通して保育や食の栄養について学ぶ場としてだけでなく、卒業後に保育関係の就職を目指す生徒にとっては職業訓練の場としても機能していました。加えて、学校周辺の会社や工場で働く女性を助けることも目的のうちに含まれていました。
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大森の敷地内に設置された託児施設
(1930年代後半)
4. 家庭科学研究所高等部で教えた人びと
その中から、戦前から戦後にかけて社会および文化に影響を与える存在となった以下の4人を紹介します。
佐佐木信綱(1872~1963年)、国文学担当
当時すでに著名であった信綱は、額田兄弟から1925年開校の帝国女子医学専門学校で国文学の講義を依頼されましたが、一度は多忙を理由に辞退していました。しかし、年に数回講義を行う他は弟子に任せるという条件で、本学での講義を引き受けました。家庭科学研究所高等部にも3回ほど赴いて短歌の手ほどきなどをしたといいます。
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佐佐木信綱(1930年頃)
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佐佐木信綱の講義風景(1934年頃)
村岡花子(1893~1968年)、児童文学担当
また、戦前より女性解放運動に携わっており、1930年には婦選獲得同盟の全日本婦選大会に参加し、女性の参政権獲得に注力していた人物としても知られています。
坂本真琴〔旧姓 高田〕(1889~1954年)、染色担当
1920年、平塚らいてうが発足した新婦人協会に参加し、治安警察法第5条改正の請願運動の中心的存在となりました。この運動によって女性の結社権や集会の自由を禁止していた第5条が1922年に改正されます。その後も婦選獲得同盟などで中央委員として活動を牽引していきました。また、女性解放運動と並行して、染色家としても活動していました。夫が染料商店を営んでいたことから自宅で講習を開催する他にも、農村地域を巡回して講習を行っていました。
三田庸子(1904~1989年)、衣服・織物担当
終戦後、GHQの意向で女子刑務所の所長に女性の就任が望まれ、1947年に和歌山刑務所で日本初の女性刑務所長として三田が就任しました。1955年刊行の著書『女囚とともに』(朝日新聞社)は映画化もされ、当時大きな話題を呼びました。1960年には東京婦人補導院の初代院長を務めるなど、生涯にわたって社会福祉と更生保護に携わった人物です。
5. 閉校、受継がれた教育
1935年6月、高良が本学を退職すると同時に、高等部の校名を「帝国女子高等学園」に改称しました。額田晉が校長となり、教育方針についても「自然科学に基礎を置いた家事科本位」の教育機関として「家庭婦人」を養成することへと変更しました。こうして時代の潮流に乗って再出発を図ったものの、1回生12名が卒業した後は入学希望者がないまま閉校状態が続き、1941年7月31日に廃止認可を受けました。
一方、高良は1935年に開館された「佐藤新興生活館」の理事に就任しました。生活館は生活改善を掲げる新興生活運動の中心の場となり、開館2年後には館内に女性のための「生活訓練所」を開設し、全国各地の高等女学校校長や市町村長などから推薦された女性が集められていました。ここで女性たちは共同生活を送り、家庭生活の研究と実践を通した訓練を行い、各々の郷土における新興生活の指導者となるべく養成されていました。生活訓練所の主任となった高良は、家庭科学研究所高等部で行った教育を応用し、その後も生活合理化の推進に努めていきました。
6. 帝国女子理学専門学校の開設 —「科学する心」と戦争
1941年3月、額田兄弟の悲願であった帝国女子理学専門学校の設置が文部省より認可されました。当時の学内広報誌には、「女性に科学する心を植えつけ家庭を通じて科学振興を行ふという趣旨」から日本初の理専として設立が認可されたと記述があります。文中の「科学する心」というフレーズは、当時の文部大臣であった橋田邦彦(生理学者)が、戦時下における科学振興のためのスローガンとして用いたものでした。
4月開校の理専には、1回生として1年制の予科に約140人、3年制の本科(数学科、物理科、化学科、生物科)に約100人が入学しました。しかし、時局の影響を受けて修業年限短縮についての勅令が公布され、1回生は卒業時期が半年繰り上げられました。さらに2回生以降は、1943年6月から本格化した学徒勤労動員や、修業年限の1年短縮、終戦前後の混乱によって、十分な教育を受けられないまま卒業を迎えることとなりました。
終戦後は連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の指導下で教育改革が進められ、理専は1947年に「東邦女子理学専門学校」へ改称した後、1950年に男女共学の「東邦大学理学部」として新制大学へと昇格し、現在に至ります。
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橋田邦彦(1930年頃)
東京帝国大学医学部で教鞭を執るかたわら、1926年より8年間本学医学科で生理学を教えていました。 -
帝国女子理学専門学校の木造校舎
(1941年頃) -
終戦後、習志野に移転した理専と薬学科の正門
(1946年頃)