教科書の謎

学校の勉強道具というと、何を思い浮かべるでしょうか。
スタッフには紙の教科書やノートが真っ先に思い浮かびますが、学校もデジタル化の進む昨今、若い方の中には、パソコンやタブレットなどの端末の方に親しみを感じる方もひょっとしたら居るかもしれません。
慣れ親しんだ教室風景が変わってしまうのはなにやら寂しいような気も致しますが、勉強のスタイルも時と共に移ろいゆくものではあります。さらにこれから先の未来、今は想像もつかないような勉強道具が発達する時代が訪れることもあるのかもしれませんね。

さて、本学の前身である専門学校が存在していたのは、1925年から1951年の間。デジタル化が学校に到来するはるか昔のことです。
勉強道具も、もちろんアナログ。おそらくスタッフが「授業」と聞いて思い浮かべるような、教科書・ノートなどを主戦力とする構成に近かっただろうと思います。

というのも、教科書を活用する教授法を学校の方針として掲げていたからです。
曰く、従来の学校では講義をまるで速記者のように学生に筆記させるのが慣習となっているが、本校では書籍もしくは抜萃を用いて要点を説明し、不足する部分だけを筆記で補う形をとることにより、学習効果を上げるのだとのこと。
教科書やレジュメを基に展開する授業形態は、現在ではごくありふれたものとなっていますが、この時代には珍しいものだったのでしょうか。

ところでその教科書についてですが、実は専門学校時代の教科書はあまり多く残っていません。
冒頭に挙げた画像は、その中の貴重な一冊です。

わら半紙と思われる紙に謄写版で印刷された小冊子。
表紙には「幾何学」というタイトルと、「帝国女子理学専門学校」の校名が印刷されています。
序文もなく、裏表紙の奥付も大変簡素化されているため、著者、刊行年月ともに不明となっています。

一方、書き込みがあるため、実際に勉強に使われていたようだということは分かります。

1941年に開設された帝国女子理学専門学校は、現在の理学部の前身となった学校です。1947年には東邦女子理学専門学校と改名し、1951年に最後の卒業生を送り出し、廃校となっています。その約10年の歴史の中のどこかで使用されたテキストと思われます。

紙質があまり良くないことや奥付が大変簡素化されていることから、戦中の印刷・出版状況が悪化してから、終戦後しばらくのまだ回復しない時期の間に作成されたものではないかと思うのですが、これもまたスタッフの当て推量にすぎません。詳細不明のまま、しかし確かに貴重な資料として大切に保管されています。

本学の歴史にはまだまだ分からない部分があります。
資料が見つからないため詳細が分からない場合も、逆に所蔵している資料の背景情報が不明な場合もあります。

より豊かな大学史を後世に残せるよう、資料室では資料の御寄贈などをお待ちしております。



《史料・参考文献》
校長医学博士額田晉「教授の方針」『学友会々報』第1号、p3。
「教授の方法」海野勝三郎編『学友会々報特別号 大正十五年十月現在 財団法人帝国女子医学専門学校医学科薬学科概況』学友会、1927年1月、p5。

見学玄編『東邦大学50年史』東邦大学創立50周年記念事業委員会、1978年3月、巻末年表、p588、p604、p610、p612、614。

投稿者:スタッフ

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