数年ノ後ヲ御楽シミ被下度
2024年06月28日今年は空梅雨でしょうか、梅雨入り宣言以降も東京ではあまり降雨を見ない日が多いように思います。しかし本来ならば6月は雨の季節、ということで、今回は季節にちなんだ(?)資料をご紹介したいと思います。
「梅雨之候日々雨天ノミニテ誠ニ鬱陶シク候ヘ共」で始まるこの書簡は、額田豊先生が母、宇多氏に宛てたものです。封筒に「43.7.19」の消印がありますので、明治43(1910)年に書かかれたものと思われます。
中身を見てみますと、東京で暮らす豊先生が郷里岡山に居る母に向けて綴った近況報告のようです。
書簡の冒頭部では、開業のための物件探しが難航していること、ようやく「一西洋館」を借りることに決まり9月に移転する予定であることが述べられています。
「何分影形ナキ処殊ニ日本一ノ都ニテノ初開業ナレバ随分骨ノ折レルヿナラント覚悟致タシ居申候間 数年ノ後ヲ御楽シミ被下度候」というフレーズからは、初開業、しかも首都で一から医院を開業するにあたっての覚悟や意気込みと同時に、宇多氏を心配させないためでしょうか、どこか飄々としたユーモアも感じられます。
この時、額田豊先生は32歳。
帝国大学を卒業してドイツ留学から帰国して……と、押しも押されぬ経歴を重ねた、前途洋々たる若者です。一方でそれは今後の進路につき選択肢が複数あり、まだ将来の可能性が一つに定まらないということでもあります。それらの選択肢の中から豊先生は開業という道を選びましたが、その先にどんな未来が待っているか100%の保証をすることは、他の多くの選択肢と同様、誰にもすることはできなかったでしょう。現在「学祖」と仰いでいる人にもそうした時期があったと思うと、なんだか少し不思議な気持ちになりますね。
さて、その後の話を少ししますと、ちょうどこの書簡が書かれた日の翌月、1910年の8月に夏目漱石を診察したことから、額田豊先生はメディアで注目される医師となり、新聞、雑誌等、各種の媒体に記事を執筆するようになります。そして1914~1915年には一大ベストセラーとなる『安価生活法』を著すこととなるのですが、そのような「数年後」が訪れる事は、さすがに先生にも宇多氏にも、この書簡を交わした時点では予想がつかなかったかもしれません。
《参考文献》
炭山嘉伸『額田豊・晉の生涯 東邦大学のルーツをたどる』中央公論事業出版、2015年6月、p20~22およびp199略年表。
投稿者:スタッフ
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