台北からの手紙—東邦大学と森於菟
2020年05月15日
5月13日の産経新聞に、森於菟(もり おと)に関する記事が掲載されていました。森於菟といえば、まっさきに森鷗外の長男であることが思い浮かびますが、じつは東邦大学で戦前から教授として長い間教鞭をとり続けた人物でもあります。
東邦大学の前身である帝国女子医学専門学校は1925年が創立年ですが、その翌年から森於菟は本学で教授として組織学や胎生学の講義を受け持っていました。
そもそもなぜ本学で教鞭をとっていたのか。その理由として、本学創立者の一人である額田晉(ぬかだ すすむ)が、森於菟と獨逸学協会学校で同窓生であったことが考えられます。(さらに額田晉は、1922年に亡くなった森鷗外の主治医でもありました。この話は長くなるのでまたいつか!)こうした繋がりの中で、額田晉が森於菟に話を持って行ったものと考えられます。
森於菟は1926年から約10年間本学で教鞭をとったのち、台北帝国大学の医学部で解剖学を教えるために台湾へ渡ることになります。
台北にいる間、本学に向けて送った手紙が学内広報誌『高峯』に掲載されました。手紙には1941年8月13日と書かれており、「小生台北に参りましてから五年半になりました。」とあります。台北帝国大学の森於菟の研究室に帝国女子医学専門学校の卒業生も在籍していること、台北で医学部長を務めていた間は多忙で自分の仕事ができなかったこと、旧台北医学専門学校の寄宿舎を教室として使っていることなどが書かれています。
森於菟が帰国したのは戦後の1947年で、本学の教授に復帰したのは1948年のことでした。当時の学生たちが戦前戦後を振り返った文集には、森於菟が復員服姿で授業をしていたというエピソードが載っています。
戦後、本学の名前が東邦女子医学薬学専門学校に変更されると、森於菟は額田晉から校長の職を引き継ぎました。また、東邦大学として新制大学に昇格した後も医学部長を務めるなど、長きにわたって本学を支え続けることになりました。
少し長くなってしまいました…。森於菟の東邦大学でのエピソードはまだまだ尽きません。
またの機会にここでお伝えできればと思います。
※画像は戦前の学内広報誌『高峯』(1941年10月1日発行)に掲載された森於菟からの手紙の冒頭部分です。
投稿者:スタッフ
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