理学部教養科

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映画『沈黙——silence』(M・スコセッシ監督/遠藤周作原作)における憲法の普遍主義

法学教室 長 利一
 日本国憲法前文は基本的人権の保障を「普遍原理」とする。憲法本文98条が自身を最高法規と謳うのは基本的人権を保障(97条)するが故とされる。「普遍主義」の一般的な含意は、「時間(歴史)と空間」を超えた価値理念が存在する」というにあり、日本国憲法もこうした普遍的理念を謳う。近代憲法の人権保障の淵源は、ヨーロッパでの数百年にも及ぶ宗教戦争の末実現した信教の自由に由来するといわれる。こうした人権保障を中心とした憲法の普遍主義的理解と、日本(人)の(文化や価値観等)固有性の主張とは調和するか、それとも矛盾命題であるか。
 この人権保障の普遍主義は、最近映画化されたスコセッシ監督『沈黙——silence』(遠藤周作原作)で描かれたている、拷問により棄教を強いられた日本のキリシタンの信教の自由にも妥当すべきということになろう。これに対し、ときの権力はキリスト教を国禁の宗教とし、またのちに明治政府も国家神道を天皇制の支柱とする一方でキリスト教を禁圧した(明治初期のキリスト教徒に加えられた生々しい拷問の詳細につき、遠藤周作『女の一生——キクの場合』新潮文庫)。他方、ヨーロッパ生まれのキリスト教の「普遍主義」は、「文明」という名の進歩主義と武力による侵略・植民地主義が結びついて勧められたことは看過しえない。徳川幕府は鎖国政策を守るためキリスト教の禁止を必要としたし、幕末の(キリスト教国禁も含めた)尊王攘夷政策は国内統合と欧米の帝国主義からの自国防衛の面もあったと思われる。
 しかし、ここで問題にしようとするのは、キリスト教の「普遍主義」とか、「日本固有の神道」とかのあれこれでなく、何を信ずるか信じないかの自由は「個人の尊厳」(日本国憲法13条)の問題だという普遍主義の方なのだ。国家社会の利害を超えた規範的な「理念」の力を、ここでは普遍主義と呼ぶ。こうした意味での普遍主義がこの国では可能かという深刻な問いを、のっぴきならない形で提出しようとするのがこの映画である。映画は、棄教を迫る幕府の役人とこれを拒む宣教師との間でなく、「転(ころ)んだ」(棄教した)宣教師vs棄教を拒む宣教師との緊迫した議論においてクライマックスに達する。後者が日本独自のキリスト教普及が可能との主張に対し、前者は日本という国は「沼地」に譬えられキリスト教の自生以前に根が腐ってしまう(キリスト教とは全く別ものに変質する)という。
 最も深刻な問題は、国家神道の天皇制でさえ日本人には心底信じられておらず「建前」に過ぎなかったことである。8・15の前後を通じて、天皇制から「米国製自由民主主義」への移行は驚くほど速やかであった。周囲(ここでは国家社会)の「空気を読む」日本人の才覚(これを別名conformismという)は、その一方で「普遍的理念」の力において乏しい。戦時天皇制や戦争に反対したキリスト教徒や共産党員の「転向」と、国民の「総転向」とは通底するものがあるだろうか。映画の中で幕府の役人はキリシタンに「形」だけ「転べ」という。内心(思想・良心)の自由において苦しまないなら、反省や責任は生じ得ない。戦後高度経済成長やバブル、そしてポスト3.11(原発事故)の「虚無」の根がここにこそ存する。

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