『哲学がわかる 因果性』が出版されました。
このたび、英語教室の塩野先生と、やはり理学部で英語を教えてくださっている谷川先生の共訳で、『哲学がわかる 因果性』という本の翻訳が岩波書店から出版されました。

塩野:因果性は、西洋哲学では昔から主要テーマの一つですね。この本でも、古代ギリシャ時代のソクラテスやアリストテレスにまでさかのぼって、解説がされています。
谷川:それに因果性は、現代の科学においても、そして私たちの日常生活でも、常に話題となることがらです。たとえば「信号故障のために電車が遅れている」などと言うとき、私たちは因果性を問題としているわけです。
塩野:そうですね。でもそのわりには、因果性を主題として扱った日本語の本で、一般の読者に読めるやさしいものは、これまでほとんどありませんでした。
谷川:はい。今回翻訳したこの本では、具体的な例がいろいろ挙げられて、因果性の問題に関するさまざまな哲学的アプローチが、わかりやすく説明されています。
塩野:ええ。そんな理由もあって、この翻訳を一緒にやろうという話になったのでした。とはいえ、因果性というものが、科学や日常生活上の問題としてではなく、哲学の問題として論じられなければならないということは、哲学に詳しくない人にはわかりにくいかもしれません。特に、この本の著者のマンフォードとアンユムは、最初の章で、「哲学優先主義」のようなことを言っています。これはどういうことでしょう。
谷川:そのように言うことによって著者たちは、因果性をめぐる問題に対して哲学固有のアプローチがあると主張しているのだと理解しています。そうした主張の是非については哲学者たちのあいだでもいろいろ意見のあるところですが、私はそれに共感をもちます。
塩野:もう少し具体的に言うと、どういうことですか。
谷川:経験的な探求によって多くの事柄が明らかとなることは、言うまでもありません。たとえば得体の知れない病気が発生したり、景気が悪かったりしたとき、ひとはその原因を知りたいと思うでしょうし、そしてそれは種々の経験的な調査によって明らかとなるでしょう。ですがそのとき注目してみてもよいと思うのは、私たちはこの世界で起こる出来事には原因があるということを前提している点です。私たちがこの世界のありようを理解するのに、因果性の概念は基本的な役割を果たしているらしい。私たちは、この世界のなかの出来事はランダムな仕方で起こるわけではなく、何らかの秩序のもとで起こっていると考えているようです。ですが、因果関係が成り立つとは、そもそもどういうことなのでしょうか。
塩野:ほう。その「・・・とは、そもそもどういうことなのでしょうか」という問いが、まさに哲学的な問いなわけですね。
谷川:そのとおりです。私たちはさまざまな場面で因果関係の成立・不成立を話題にしているわけですから、因果関係はどのようなときに成り立つのか、その条件についてある程度は理解していると言ってよいはずです。ですがその条件は、正確にはどのように述べられるのでしょうか。そのような条件は、発見を通じて明らかになったりしません。条件というのは物ではないので、まるでダイヤの原石のようにこの世界のどこかを探せば見つかるというわけではないからです。するとそれはもっぱら頭で考えて取り組むほかない。
塩野:なるほど。そうすると、経験的な探究や発見を通じてなされるべき科学の課題とは区別されるものとして、「頭で考える」哲学の課題があるというわけですね。
谷川:はい。そしてそれは取り組むだけの価値がある課題だと私は考えます。
塩野:ところで私は、理学部で教えていることもあって、科学や日常生活で、因果関係の判断を適切にできるようになることは、とても大切なことで、しかもそれは言うほど簡単なことではないと思っています。たとえば、ある人がある薬を飲んですぐに風邪が治ったとき、直ちに、「薬のおかげで風邪が治った」、つまり、「薬を飲んだことが風邪が治ったことの原因だ」と考えたとしたら、それは軽率な判断というものですよね。
谷川:はい。風邪は放っておいても、結局すぐに治ったかもしれません。
塩野:もうすこし科学らしい例を挙げると、喫煙と肺がんの間に因果関係があることは、今では疑いの余地がないと考えられているそうです。また、人間の活動と地球温暖化のあいだに因果関係があることも、まず間違いないと言われています。でもこれらのことが、科学的に「疑いの余地がない」とか「まず間違いない」と言えるには、数十年に及ぶ膨大な研究の蓄積が欠かせないわけですね。「当たり前だ」とか、「見ればわかるだろう」と言って済む話ではないのです。後者については、たとえば極地で氷の層を掘って大昔の大気の組成を調べるといった、地道な研究の積み重ねが大切だと聞きます。ところで他方、前者に関して言うと、喫煙と肺がんのあいだに因果関係があることには疑いの余地がないとしても、ある一人の人が、タバコを吸い、かつ肺がんになったとき、その人が肺がんになったのはタバコを吸ったことが原因だと、直ちに言えるでしょうか。
谷川:直ちには言えないでしょう。タバコを吸っても肺がんにならない人もいれば、タバコを吸わなくても肺がんになる人もいるわけですし。
塩野:そうですよね。それで私が思うのは、因果性について、哲学的な観点からの理解を深めることは、こうした科学や日常生活の場面で、因果関係に関する理解力や判断力を高めることに、どれくらい役に立つのでしょうか。これに関してはどう考えますか。
谷川:それは正直、お答えするのが難しい質問です。さきほど私は、哲学の課題は科学の課題とは区別されると言いました。そのことを踏まえると、「あまり役立たない」と答えるのが自然なのかもしれません。ですが、因果性の哲学を学ぶことが科学研究の進め方を考えるうえでのヒントになることもあると思います。
塩野:私もそう思います。基本的なところでは、出来事タイプのあいだに因果法則があるかどうかと、個別の出来事のあいだに因果関係があるかどうかは別のことだという話は、哲学をやると必ず出てきますね。また、因果法則の中には、Aタイプの出来事が起こると必ずBタイプの出来事が起こるという決定論的なものもあれば、Aタイプの出来事が起こるとBタイプの出来事が起こる確率が高まるという確率論的なものもある。こうした話はいずれも本書で紹介されていて、それを知っていると、先ほどの喫煙と肺がんの例などを、きっとより明晰に理解できるようになるでしょう。また、人間の活動と地球温暖化のあいだに因果関係があるかどうかを解明するのがたいへんなのは、ひとつには、それが地球の歴史の中で一度しか起きていない出来事で、そこに法則性があるかどうかを問いにくいためではないか、と考えてみることもできるかもしれません。
谷川:そうですね。それから因果性の哲学の文献では、因果関係の成立条件が追求されるとき、たいてい、候補となる条件をさまざまなケースと照らし合わせるといった作業が伴われています。それは科学の場面で取り上げられるケースであったり、日常生活で起こるケースであったり、架空のケースであったりします。
塩野:ケースとは、具体例という意味ですね。
谷川:はい。それで、それらのケースとの照合を通じて、候補となる条件の不備や間違いを指摘したり、あるいは問題のケースはそもそも因果関係なのかといったことを考えたりするわけです。たとえば相関関係は因果関係と区別されますが、それは相関関係にありながら因果関係にはない、いわば反例となるケースがあることによって示すことができます。本書でもそうですが、そのほかにも候補となるいろいろな条件が取り上げられて、そしてその適切性が種々のケースとの照合を通じてチェックされています。そうしたケースについてあらためて自分で考えてみることは、知的な刺激になると同時に、自分が研究課題とするようなケースについて「これは本当に原因なのだろうか」と一度は疑ってみるような、慎重に判断を下す視点を身につけるための練習になりそうです。
塩野:ええ。言い換えると、哲学は、「因果関係が成り立つとは、そもそもどういうことなのか」というきわめて一般的で抽象的な問いを立てて、頭の中で考えることでそれに答えようとするわけですが、しかしその問いをあくまで、具体的な例を数多く検討することを通じて考えるわけですね。実は、その点では哲学の方法も、自然科学の方法と構造的には同じだと言えるでしょう。科学の諸分野も、一般的で抽象的な理論をつくることを目標としつつ、あくまで具体的な観察や実験に支えられて、そこから推論を経て理論がつくられるわけですから。
谷川:はい。ですから本書はきっと、哲学の専門家だけではなく、いわゆる理系の人を含めた多くの読者に楽しんでいただけるのではないかと思っています。
なお、今回はこの『因果性』に加えて、『形而上学』『自由意志』の3冊が同時に刊行されました。3色の鮮やかな表紙が書店で目に入ったら、ぜひ手に取ってください。これらが扱っている領域は相互に緊密に関係していますので、併せて読むと、現代の哲学への理解をいっそう深めていただけるでしょう。詳しくは下記のページをごらんください。