理学部教養科

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AI(人工知能)とこれからの「学び」

英語教室 千葉康樹
 近頃の世の中の変化には、非常に目まぐるしいものがあります。大学も例外ではありません。これからの教育はどうあるべきなのか、いろいろな議論があって尽きることがありません。
 これからの世界を大きく変えるだろう有力候補のひとつは、間違いなくAI(人工知能)でしょう。
 オックスフォード大学のある学者は「10年で人工知能に取って代わられる職業」の一覧を発表してニュースになっていました。AIの進んだ未来に対して、私たちは希望だけでなく不安も感じるようになっています。一方で、癌の早期発見などでは想像もできなかった活躍をしてくれるAIですが、他方、あまりに強力なAIが人間の領域を侵すのではという懸念は拭えないのです。
 さてそんな折、Google翻訳の性能が大幅に向上したという話を耳にしました(11月中旬)。
 ネットで調べてみると、実際にバージョンアップしたGoogle翻訳を試した人のコメントがいろいろ出ています。どうやらGoogle 翻訳は(こちらも最近話題の)ディープラーニングを活用したようで、そのために性能が大きくアップしたというのです。私の同僚の教授も「自分の書いている論文の日本語バージョンを入力したら、ほとんど正確に英語に翻訳してくれた。次にその英語を日本語に戻したら、ちゃんと元の日本語が出てきた」と驚いていました。
 スマホやウェアラブル端末に高性能の翻訳AIを入れておけば、英会話だって自由自在に行うことができる——そんな未来が近いのかもしれません。
 そうなると、英語が苦手な人でも、自由に言語の壁を乗り越えることができますし、英文法や英単語の暗記といった勉強の必要もなくなるのかもしれませんね(入試科目から英語が消えることが前提でしょうが…)。
 日本の若者の多くは中学高校を通じて、数千時間もの時間を英語学習に費やしています。その苦労が必要なくなり、その時間を他に振り分けることができるようになれば、確かに、学びの風景は大きく変わることでしょう。
 私はイギリス文学の研究が専門でして、東邦大学では英語を教えています。イギリスの小説の翻訳もいくつか出版しています。そんな私にとって、Google 翻訳のレベルアップのニュースは人ごとではなくて、ちょっとショックでした。小説を書くAIや、詩を作るAIはすでにニュースにもなり、話題になっています。同じように、プロの翻訳家と遜色のない「翻訳AI」がこれから登場してくるのでしょうか。正直、自分の翻訳よりAI翻訳の方が上手だったりしたら、かなりヘコむのではないかと思うのです…。
 で、ちょっと不安になった私は、Google翻訳をいじってみました(初体験です)。
 手始めに、こんな日本語を訳させました。

「吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生まれたかとんと見当がつかぬ」
 
 ご存じ、夏目漱石『吾輩は猫である』の冒頭です。Google翻訳はこんなふうに訳しました(2016年11月22日)。

“I am a cat. There is no name yet. I have no idea where I was born.”

 どうでしょう。文法的な間違いはないですが、点数をつけると、65点位の訳ですね(There is no name というのは、ちょっといただけません)。今度はこの英語を日本語に戻してみました。すると次のような日本語が出てきました。「私は猫です。名前はまだありません。私はどこで生まれたのか分かりません」——残念ながら、これは小説の文章としては落第です。誰もこんな書き出しの小説は読みたいと思わないでしょうね。小説の翻訳の難しいところは「文法的に正しければOK」とはならないというところにあります。
 私は漱石の文章からもうひとつ訳してみました。今度は『坊っちゃん』の冒頭です。

「親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている」

 残念ながらGoogle翻訳は文法的にも落第点の翻訳を作ってしまいました。こんなふうです。

“I have been losing my parents since I was a child with no ruffle.”

 “…have been losing my parents…”「両親を失ってきている……」という前半でもうアウトですね。「無鉄砲で」の「で」の用法なども、正確に理解できていないのではないかなと思います(Google翻訳は「鉄砲なしで」と解釈しているようです)。
 ところが、原文の日本語を少し易しめに書き換えて、「私は親に似て無謀な性格をしていたので、子供の頃からトラブルが多かった」というふうしてから翻訳させると、結構正確に訳してくれるのです。こんなふうです。

“I had a reckless character similar to my parents, so I had a lot of trouble since I was a child.”

 この結果からこんなことが考えられます。
 『吾輩は猫である』も『坊っちゃん』も、漱石独特の口調で語られています。非常にキャラの立った日本語です。あまり一般的でない日本語だとも言えます。どうも現段階のGoogle翻訳は「キャラの立った」日本語にはまだ対応しきれていないようです(一安心…)。しかし、AIがこの後、ディープラーニングによって大量の日本文学の文章を学んだならば、AIによる漱石英語訳もいつかは名調子の名訳になるかもしれません。それがこれから興味のあるところでもありますし、不安なところでもあります。
 さて、漱石の翻訳はこのくらいにして、話を最初の方に戻しましょう。
 AIが翻訳・通訳してくれるようになったら、私たちはもう外国語の勉強をしなくてもよいかもしれないと書きました。
 ここで疑問なのですが、英語学習の必要がなくなること、それってそんなに素晴らしいことでしょうか。英語だけではありません。原理的には、アラビア語を使いたい人も、スペイン語で意志疎通をしたい人も、AIがあれば、それで事足りるようになるのです(実際、アラビア語圏に急に転勤になる商社マンにとって、AI翻訳は強い味方になるでしょう)。そこで省かれるのは、外国語を学ぶ苦労です。人生、苦労はない方がいい。手っ取り早いのが一番。確かにそうかもしれません。ですが、時間と労力をかけて何かを修得するというプロセスには、また別種の価値があるのではないでしょうか。AIのチップを脳に埋め込んだだけでピアノが弾けるようになる——それは人間として本当に幸福なのでしょうか? 気の遠くなるような精進の積み重ねによって磨かれた技術や能力には、きわめて人間的な幸福が備わっているのではないかと思うのです。AIが人間の幸福のためにあるのだとしたら、AIとのつきあい方について本気で考えていかないといけないでしょう。
 AIの進歩によって「学ぶこと」の風景は大きく変わっていくことでしょう。そしてそれは同時に「学ぶってなんだろう?」と改めて根本から問い直す機会を与えられることになるでしょう。「受験のため」「資格のため」「高収入のため」「親や先生にほめられるため」——学びの目的はいろいろあるでしょう。
 しかし「学ぶこと」の意味は、「合格」や「評価」ということとは別の、もっと人間的な本質に結びついているのではないかと思うのです。
 これからの大学教育には、そういった「学びの意味」の問い直しも求められているような気がします。それはAIの進歩がもたらす危機かもしれませんが、AIが与えてくれた絶好の好機ともいえるでしょう。
千葉康樹
東邦大学理学部教養科教授(英語教室)
専門はイギリス文学。2017年1月にイギリス怪奇小説の大家シェリダン・レ・ファニュの翻訳を創元推理文庫から出版する。

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