理学部生物学科

メニュー

匂いと脳のストレス応答

1. はじめに

 ストレスが私たちの健康に影響を及ぼすことは周知の事実です。未来や人生に対する不安などの先行き不透明感が社会全体を支配している昨今、心の健康は非常に重要な課題になっています。ストレスの影響は、ヒトを含む動物において古くから研究されており、特に視床下部-下垂体-副腎 (HPA) 軸を介した内分泌系の変化が明らかにされています。しかし、脳のストレス応答や精神疾患の発症メカニズムは未だ解明されていません。一方、特定の香りはストレスを抑制することが経験的に知られています。嗅覚系が退化したといわれているヒトにおいても、嗅覚は自律神経系や情動(感情)、高次機能などに影響を及ぼします。匂いは、ストレスを誘発して動物の生存を左右したり、ストレスレベルを低下させたりします。したがって、匂いが脳のストレス応答に及ぼす影響を科学的に証明することは、ヒトのメンタルヘルスに貢献すると考えられます。生物学の新知識では、これまでに「香りがストレスを抑制する?不眠ストレスに対するコーヒーアロマの癒し効果」(2010年)、「ストレスと脳」(2013年)、「アロマと嗅覚、そしてストレス」(2015年)、「化学的ストレス」(2018年)というテーマで私たちの研究を中心に紹介しました。今回は、匂いと脳のストレス応答の関係について、最近明らかになってきたことを幅広くみていきたいと思います1)

2.におい

 「におい」は空気中を漂って嗅覚を刺激するもののことであり、においを意味する言葉にはさまざまな種類が存在します。「におい」は英語のsmellに当たり、好ましいものも好ましくないものも含みます。「香り」はfragranceやscentであり、好ましいにおいを意味します。「アロマaroma」は、通常、食べ物や飲み物から出る良いにおいを表しますが、「アロマセラピー」を考慮すると「におい」や「香り」の意味も含まれます。「臭い」はodorに相当し、「におい」を意味しますが、通常、不快なにおいのことです。「匂い」はニュートラルな「におい」、および、どちらかというと良いにおいに対して使われるようです。本稿ではニュートラルなにおいを意味する言葉として「匂い」を用います。このように種々の表現があるにも関わらず、それぞれの匂い分子は同一である場合があります。例えば、匂い分子が低濃度の場合は心地よく感じられたとしても、高濃度になると不快に感じられたり毒性を示したりする場合もあります。匂い分子が生体に作用する場合、直接神経を介して嗅覚を刺激する嗅覚経路だけでなく、皮膚や鼻および肺から吸収され、血流を介して作用する経路があります。したがって、匂いの影響については、不揮発性化合物の溶液を注射する場合と異なり、用量と反応の関係が明確になり難いのも事実であり、ほとんどの論文には匂い分子の濃度が明記されていません。このような匂い分子特有の課題は今後克服していく必要があります。

3.ストレスを誘発する匂い

 悪臭にさらされるとヒト唾液中のα-アミラーゼが増加することが明らかにされており、匂による不快感がストレス反応を誘発する可能性が示唆されています。しかし、特定の匂いによるストレス誘発については、ヒトを対象とした実験が倫理的に困難であることもあり、ほとんどの研究は動物実験により行われています。妊娠した動物がストレスを受けると、胎児の嗅覚系の発達が悪くなり、成熟するまでの神経新生および嗅覚能力に影響することが明らかになっています。一方、母親の匂いは仔の認知機能を高めることや社会的支援によるストレス抑制現象(社会的緩衝)の発現に影響を及ぼすことが報告されています。動物の匂いに関する研究の多くは、捕食者が放出する匂い分子が獲物にとってストレス要因となることを示しています。ラットやマウスなどのげっ歯類に対する捕食者は、ネコ、ハムスター、モルモット、フェレット、キツネ、コヨーテなどであり、これらの尿や糞の匂いの影響が調べられています。種の保存のためには、環境中の揮発性分子からいち早く生命の危機を察知することが極めて重要です。脳内の海馬は最近起きたことを記憶(近時記憶)し、その情報を扁桃体が取捨選択して古い記憶(遠隔記憶)として大脳皮質に保存すると考えられていますが、海馬に依存した学習中に捕食者の匂いに軽く暴露された場合、扁桃体が活性化されて学習能力が向上するという報告があります。したがって、ストレスを介したメカニズムが学習能を向上させる可能性が考えられます。このように、嗅覚と扁桃体および海馬との関係を示唆する知見が蓄積されつつあります。
 しかし、匂いストレスも諸刃の剣であるといえます。母親が妊娠中に捕食者の匂いストレスを受けると、その仔は不慣れな環境に対する感受性が低くなることから、捕食されやすくなってしまいます。思春期のげっ歯類に対するキツネやコヨーテの尿の匂いは強いストレスとなり、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの精神障害発症につながるといわれています。実際、キツネの糞に含まれる匂い分子2,5-ジヒドロ-2,4,5-トリメチルチアゾリン(TMT)をげっ歯類に吸引させるとPTSDを誘発することが示唆されています。また、オオカミの尿に含まれている3つのピラジン類似体の混合物は、マウスの恐怖関連反応を誘発すると報告されています。一方、ストレスを感じたラットは特定の匂いを放ち、それを感知した他のラットは危険を回避することが可能になります。この匂いは、他のラットの不安レベルを高めるフェロモンであり、4-メチルペンタナールおよびヘキサナールと関連があると考えられています。このような匂い分子について解析することは、哺乳類による化学的コミュニケーションの理解に役立つ可能性があります。なお、匂いストレスに対する反応には性差があることも指摘されています。

4.ストレスを抑制する匂い

4-1.ヒトへの影響

 ヒトの場合、捕食者による危険はほとんど無いとしても、ストレスはさまざまな精神障害発症の危険因子であることから、ストレスレベルの抑制が望まれます。香りのストレス抑制効果は経験的に知られており、香りが生体に及ぼす影響が長い間研究されてきました。ヒトを対象とした研究では、体温・血圧・心拍数などのバイタルサインおよび血液や唾液中のストレスマーカー等の測定が可能なばかりでなく、精神科領域の問診によって気分等の状態を評価することが出来ます。したがって、ストレスにより生じるこれらの変化は、香りのストレス抑制効果を証明する際の根拠となります。ただし、香りの主成分は揮発性であるため、投与量を制御するのは困難です。このような状況下、パートナーの体臭はストレス環境での不快感を軽減することが2019年に報告されています。また、身体的および精神的ストレスをストレスマーカーのひとつである唾液中クロモグラニン-Aの測定と心理学的評価法によって解析した研究から、紅茶の香りがストレスレベルを低下させること、およびダージリンティーの香りが精神的ストレスに曝露される前に気分を改善することが示唆されています。そのほかにも、ストレス抑制効果を有する匂いとして、ラベンダー、ローズ、ローズマリー、ベルガモット、カモミール、グレープフルーツ、ビターオレンジ(ダイダイ)の花から得られるネロリ(Citrus aurantium L. var. amara)、ヒノキやスギなどの樹木由来のエッセンシャルオイル(精油)等に関する研究が行われています。
 ラベンダーやローズマリーはフリーラジカルの除去を促進し、ヒトの唾液中コルチゾールレベルを低下させることが明らかにされています。ラベンダー、イランイラン、マジョラム、ネロリの混合物 (20:15:10:2)は、ストレスレベルを抑制し、高血圧を制御するようなリラックス効果を有するといいます。また、柑橘類に含まれる代表的なモノテルペンであるリモネンの香りは、ヒトの健康に役立つ可能性が示唆されています。ヒトがホテルで3泊する際、ヒノキ(Chamaecyparis obtuse)の幹から採ったオイルを気化させて芳香性揮発性物質 (フィトンチッド)を夜間に吸引させたところ、血液中のナチュラルキラー(NK)細胞の活性と比率が大幅に上昇し、尿中のT細胞の割合およびアドレナリンとノルアドレナリンの濃度が低下したという論文があります。ホテルの客室の空気からはα-ピネンやβ-ピネンなどのフィトンチッドが検出されたそうです。したがって、フィトンチッドへの曝露は、ストレスホルモンレベルの低下とNK活性の上昇を引き起こし、免疫機能が強化されると考えられます。同様に、スギ(Cryptomeria japonica)の木から抽出された精油による嗅覚刺激は女性の気分を変え、交感神経活動を一時的に抑制することが明らかにされています。脂肪族アルデヒドの一つであるシス-3-ヘキセノールは、トランス-2-ヘキセナールの異性体とともに緑葉アルデヒドの別名をもつ、草や葉の匂いの主要な成分です。両者の混合物がもつ抗疲労効果には、嗅覚受容体を介した嗅覚経路が関与していることが示唆されています。ヨモギ(Artemisia montana)の精油に含まれる揮発性成分は、経鼻吸収後にストレスを軽減することが明らかにされており、その鎮静効果は1,8-シネオールによるものであると考えられています。合法的ヘンプ(麻)品種から抽出した精油の主成分はミルセンとβ-カリオフィレンであり、吸入すると脳波活動と自律神経系に影響を与えます。したがって、カンナビス(大麻、マリファナ)の精油がストレスやうつ病、および不安において神経調節作用を有すると考えられています。このように、ストレスを抑制する匂いが多数知られており、実際にアロマセラピー等に利用されています。しかし、香りが脳のストレス応答に及ぼす影響のメカニズムはまだ解明されていません。

4-2.ラットへの影響

 多くの研究者たちが、げっ歯類に対する精油の効果を明らかにしてきました。まず、ラットを対象にした研究をみてみましょう。スコポラミンを投与するとアセチルコリンのムスカリン受容体が阻害されて空間記憶障害を生じますが、ラベンダーは、その障害を抑制することが示されました。タイム(Tymus vulgaris)には、カビ毒のひとつであるアフラトキシンによって生じる酸化ストレスを抑制する性質があります。レモングラスオイル(Cymbopogon flexuosus)は、さまざまな食品およびアロマ産業製品に使用されています。レモングラスオイルとその主成分であるシトラールは、薬物代謝酵素の活性に影響を及ぼし、肝臓の酸化ストレスを軽減する可能性があることが分かっています。ラットとヒトを対象とした研究で、ローズ精油の吸入はHPA軸に作用し、慢性ストレスによる皮膚バリアの破壊が制限/防止出来ると報告されています。カクミヒバ(Tetraclinis articulata) 精油は、ラット海馬のコリン作動性神経の活性を調節し、抗酸化作用を促進することによって、認知症に対する強力な薬になり得ることが示唆されています。ベルガモット精油は、ジアゼパムと同様に抗不安作用を示し、ストレスによる血中コルチコステロン濃度の上昇を低下させることが明らかになっています。ラットの行動解析と扁桃体のc-fos発現測定の結果に基づくと、ベチバー(インド原産のイネ科の多年生草本)精油は扁桃体中心核の神経活動の変化を引き起こし、抗不安作用を有する可能性が示唆されています。嗅覚情報は条件付け恐怖反応の社会的緩衝作用と呼ばれる現象に関与している可能性が示唆されていますが、扁桃体は社会的緩衝作用において重要な役割を果たしているといわれています。
 前述の緑の匂い(シス-3-ヘキセノールとトランス-2-ヘキセナールの混合物)は、大脳皮質前頭前野のニューロン活動に影響を与える可能性があり、抑うつ状態の治療効果が期待出来ます。その効果は、緑の匂いが海馬を活性化することに基づくと考えられています。母親から早期に分離したラットのストレスに対するヒノキ精油の影響が研究されました。ヒノキの吸入はストレスによる不安様行動を減少させるとともに、海馬におけるサイトカイン遺伝子の発現を低下させました。ヒノキの香りは、母子分離によって誘発される不安様行動を減衰させ、海馬のサイトカイン、特に Ccl2 および Il6 を調節する可能性が示唆されています。リモネン (91.11%)を主成分としてγ-テルピネン(2.02%)、β-ミルセン (1.92%)、β-ピネン(1.76%)、α-ピネン(1.01%)などを含有する精油混合物は、抗健忘症効果の重要なメカニズムであるコリンエステラーゼ(アセチルコリン分解酵素)を阻害するとともに、スコポラミンによって誘発された記憶障害および酸化ストレスを逆転させることが示されました。この精油混合物の吸入は、脳内のコリン作動性システムの活性化と抗酸化状態の回復によって記憶障害を改善し得るものと考えられます。

4-3.マウスへの影響

 バラの香りは捕食者の臭いを打ち消すことが明らかにされています。バラ油の主要な芳香成分である2-フェニルエタノールは、マウスの行動を変化させる神経心理学的効果を有しており、抗うつ作用を発揮する可能性があることが示唆さています。したがって、2-フェニルエタノールを含むバラ油の吸入は、うつ病やストレス関連疾患に効果的である可能性が考えられます。ラベンダー、ヒノキ、α-ピネン、タイム・リナロールによってストレスが抑制されることも示されています。ローマンカモミール(Chamaemelum nobile)の吸入は、治療抵抗性うつ病患者の海馬における神経新生を亢進すること、およびコルチコステロンレベルを調節することによって抗うつ薬の効果を増強する可能性があるとの報告があります。レモン精油は強力な抗ストレス作用を有することがマウスの行動によって明らかにされています。レモンオイルの抗うつ薬様効果は、特に5-HT1A受容体を介した5-HT作動性神経と密接な関りがあると考えられています。また、レモンオイルは、海馬におけるDA、前頭前皮質と線条体の5-HT代謝回転を大幅に促進することが分かっています。
 木の香り (ヒノキチオール)はTMMT誘発ストレスを改善することが、血漿中コルチコトロピンレベルと脳内c-Fos免疫反応性によって示唆されました。フィトセラピーでは、精油は1回の塗布ではなく、数日または数週間にわたって毎日使用される傾向があるため、精油成分であるα-ピネンの吸入がマウスの行動と脳と肝臓への蓄積に及ぼす影響が解析されています。その結果、α-ピネンを5日間吸入している間、有意な抗不安様作用が認められました。しかし、脳と肝臓におけるα-ピネンの蓄積は、吸入3日目にピークに達していたことから、ストレスは内臓におけるα-ピネン蓄積に影響を及ぼし、抗不安様作用を一定に保つと考えられています。ネーブルオレンジ(Citrus sinensis (L.) Osbeck)精油とその主要な揮発性成分であるリモネンが、予測不能な軽度のストレスを慢性的に受けたマウスに与える影響が報告されています。精油の吸入により、ストレス曝露マウスのうつ病様行動や症状が有意に回復しています。リモネンは、ストレスが誘発する抑うつ行動、HPA 軸の活動亢進、モノアミン神経伝達物質レベルの低下を大幅に改善することが明らかになりました。さらに、リモネンはストレスによる海馬BDNFとその受容体発現の低下を抑制しました。したがって、リモネンの抗うつ効果が期待されます。

5.香りが行動や脳内因子の発現に及ぼす影響

 匂い分子が脳のストレス応答に及ぼす影響はまだ充分証明されていません。私たちは、匂いが脳のストレス応答に及ぼす影響を調べるため、実験動物の行動科学的解析と脳内の生化学的パラメータの解析を行いました。生化学的パラメータとしては、脳内および血中における内因性のストレスマーカー候補として最近同定したものについて解析しました。今回は、コーヒー豆の香りのほか、ラベンダー、ヒノキ、α-ピネン、タイム・リナロールといった精油の香りの効果に関する最近の研究を紹介したいと思います。

5-1.コーヒー豆 2)

図1.コーヒー豆の香りがラット脳内NGFR遺伝子発現レベルに及ぼす影響
図1.コーヒー豆の香りがラット脳内NGFR遺伝子発現レベルに及ぼす影響
 水浸ストレス負荷後、コーヒー豆の香りを吸入したラットの全脳を用いてRT-PCR解析を行いました。結果は35サイクル後の遺伝子発現量の相対値を示しています。

 私たちは、コーヒー豆の香りがストレスを軽減することを脳内遺伝子の発現変化としての証明を試みました。コーヒー飲用の効果として、ストレスを和らげること、およびうつ病や自殺のリスクを減らすことが報告されています。これまでの研究は不揮発性成分であるカフェインに焦点を当てていますが、カフェインの覚醒作用はストレスになる可能性があります。一方、揮発性成分による脳内の変化は解明されていませんでした。私たちは、ラットを4群(対照群、ストレス群、コーヒー群、ストレス+コーヒー群)に分け、24時間飼育しました。ストレスとしては、軽微である水浸ストレス(床敷の代わりに水を入れたストレス)を負荷しました。その後、脳を解析したところ、ストレスにより生じた発現変化がコーヒー豆の香りによって抑制された因子として、神経成長因子受容体(NGFR)、高親和性神経栄養性チロシンキナーゼ、受容体タイプ3(trkC)、グルココルチコイド誘導受容体(GIR)などの遺伝子、およびチオール特異的抗酸化蛋白質や熱ショック70 kDa蛋白質5がみつかりました。各因子の機能に基づくと、コーヒー豆の香りは抗酸化作用やストレス緩和作用をもつことが示唆されました。神経成長因子(NGF)は酸化ストレスに耐性があり、細胞の生存・維持に働きます。NGFR遺伝子の発現量はストレス群で減少しましたが、ストレス+コーヒー群はストレス群より高レベルを示しました(図1)。したがって、コーヒー豆の香りは水浸ストレスによる酸化ストレスを抑制すると考えられます。ストレスは、生体にとって良い「快ストレス」と悪い「不快ストレス」に分けられますが、本研究結果は、香りが快ストレスを誘発したことを示唆するものです。

5-2.ラベンダー 3)

図2.高架式十字迷路
図2.高架式十字迷路

 ラベンダー (Lavandula officinalis) 精油 (LvEO) が生体に及ぼす影響を解析しました。マウスを4群(対照群、ストレス群、LvEO群、ストレス+LvEO群)に分け、24時間飼育しました。ストレスとしては水浸ストレスを採用しました。その後、蒸留水またはLvEOを90分間吸入させました。ストレスは不安様行動を誘発することが分かっているため、高架式十字迷路試験によってマウスの不安様行動の評価を行いました。高架式十字迷路は、図2に示す通り、4方向のアームのうち2方向には壁があり(クローズドアーム)、それ以外には壁がありません(オープンアーム)。行動解析は、十字迷路の中央にマウスを置いてビデオ撮影した後、画像解析によって行い、一定時間当たりの総移動距離、およびオープンアームへの進入率と滞在時間を計測しました。これまでの研究により、動物は不安であるほどクローズドアームへの進入率が高くなり、クローズドアームでの滞在時間が長くなることが分かっています。したがって、オープンアームへの進入率や滞在時間を明らかにすることによって不安度を評価することが出来ます。本研究では、マウスがLvEOを吸入したとき、ストレスの有無に関わらずオープンアームへの侵入率と滞在時間は有意に増加しました。また、ストレス+LvEO群のオープンアームへの進入率、滞在時間および総運動量は対照群より有意に高いことが分かりました。これらの結果は、LvEOの抗不安作用を強く示唆しています。脳内活性調節細胞骨格関連蛋白質(Arc)mRNA発現量においては、ストレス群とLvEO群は対照群より有意に低く、ストレス+LvEO群は対照群と同等でした(図3A)。NGFR 遺伝子もArcと同様の発現変化を示しましたが、ストレス+LvEO群は対照群より有意に高レベルでした(図3B)。したがって、LvEOは抗ストレス作用を有すると考えられます。海馬歯状回の免疫組織化学では、ガラクトキナーゼ1(GLK1)陽性細胞数はストレス群で有意に増加し、ストレス+LvEO群では対照群と同レベルまで低下した(図4)ことから、LvEOはストレスによる覚醒・不眠によるエネルギー消費(代謝亢進)を抑制し、鎮静効果を発揮する可能性があります。

図3.ラベンダーがマウス脳内遺伝子発現レベルに及ぼす影響

図3.ラベンダーがマウス脳内遺伝子発現レベルに及ぼす影響
 水浸ストレス負荷後、蒸留水あるいはラベンダー精油(LvEO)を吸入したマウスの全脳を用いてRT-PCR解析を行いました。(A):脳内活性調節細胞骨格関連蛋白質(Arc)遺伝子の発現レベル。(B):神経成長因子受容遺体(NGFR)遺伝子の発現レベル。結果はglyceraldehyde-3-phosphate dehydrogenaseGAPDH)発現量に対するパーセンテージの平均値±SEM(n=4)を示しています。* P < 0.05(Tukey-Kramer’s HSD test)。

図4.ラベンダーがマウス脳内蛋白質発現レベルに及ぼす影響

図4.ラベンダーがマウス脳内蛋白質発現レベルに及ぼす影響
 水浸ストレス負荷後、蒸留水あるいはラベンダー精油(LvEO)を吸入したマウスの脳切片を作製し、抗ガラクトキナーゼ1(GLK1)抗体を用いて免疫組織化学染色を行いました。(A):海馬のNissl染色像。(B):海馬歯状回におけるGLK1陽性細胞。左図は歯状回((A)の四角内)の免疫組織化学染色例。結果はNissl染色細胞数に対する比率(%)の平均値±SEM(n=4)を示しています。* P < 0.05(Tukey-Kramer’s HSD test)。

5-3.ヒノキ 4)

 ヒノキは、特に日本人に馴染み深い木であり、古くから香料や建材として用いられています。げっ歯類は、同一ケージで複数匹飼育することがストレスの少ない環境であり、単独飼育はストレスになります。私たちは、マウスを1週間単独飼育した後、蒸留水あるいはヒノキの精油を90分間吸入させました。高架式十字迷路試験の結果、ヒノキ精油を吸入した群のオープンアームへの進入率と滞在時間は、対照群より有意に増加しました。この結果は、ヒノキの香りが不安レベルを軽減する可能性を示唆しています。脳内ストレスマーカー候補遺伝子の発現量を測定したところ、ヒノキ群のArcおよびNGFRの発現レベルは対照群より有意に高いことが明らかになりました。Arcは長期増強と長期記憶に重要な役割を果たしており、NGFRは酸化ストレスに耐性のあるNGFの受容体です。両者ともストレスによって発現レベルが低下することから、今回の脳内遺伝子発現の結果は、ヒノキの香りがストレスを抑制する可能性を示唆しています。これらの結果から、ヒノキの香りは抗不安作用やストレス抑制作用をもつと考えられます。

5-4.α-ピネン 5)

 ヒノキ精油の50~60%を占めるα-ピネンは、マツ由来のモノテルペンであり、多くの針葉樹に含まれる独特の香りのもとです。マウスを1週間単独飼育した後、4群:蒸留水60分間吸入、α-ピネン60分間吸入、蒸留水90分間吸入、α-ピネン90分間吸入に分けました。吸入後、高架式十字迷路試験を実施したところ、60分α-ピネン群の総移動距離は対照群より有意に増加した(図5A)ことから、α-ピネンは興奮作用を有する可能性が示唆されました。90分α-ピネン群のオープンアームへの進入率と滞在時間、および60分α-ピネン群のオープンアームへの進入率は有意に増加しました(図5B、C)。したがって、α-ピネンは抗不安作用をもつ可能性があります。しかし、有意な興奮作用および抗不安作用を生じさせるα-ピネンの吸入時間が一致しなかったため、吸入後の脳内α-ピネン濃度をガスクロマトグラフィー質量分析法 (GC/MS) により測定した結果、60分間吸入後の方が90分間吸入後より有意に高いことが判明しました。BDNF遺伝子の発現レベルは90 分α-ピネン群の嗅球と60分α-ピネン群の海馬で有意に増加した(図6A、B)ことから、α-ピネンの作用には嗅球と海馬のBDNFが関与していること、および、脳部位により作用時間に差があることが分かりました。行動解析によりα-ピネンの興奮様作用が示唆されたため、カテコールアミンの合成律速酵素であるチロシン水酸化酵素(TH)の遺伝子発現を測定しました。中脳のTH発現はα-ピネンの60分間吸入により有意に増加した(図6C)ことから、α-ピネンはドーパミン神経を活性化して運動亢進を誘発する可能性があります。これらの結果は、匂い分子の影響が嗅覚刺激と脳内移動の両方を介していることを示唆しています。
図5.α-ピネンがマウスの行動に及ぼす影響

図5.α-ピネンがマウスの行動に及ぼす影響
 ストレスを負荷したマウスに蒸留水またはα-ピネンを60分間あるいは90分間吸入させた後、高架式十時迷路試験を行いました。(A):総移動距離(m)。(B):オープンアームへの進入率(%)。(C):オープンアームでの滞在時間(秒)。結果は平均値±SEM(n=5)を示しています。* P < 0.05, *** P < 0.001 (Student’s t-test)

図6.α-ピネンが脳内遺伝子発現レベルに及ぼす影響

図6.α-ピネンが脳内遺伝子発現レベルに及ぼす影響
 ストレスを負荷したマウスに蒸留水あるいはα-ピネンを吸入させた後、嗅球、海馬、中脳を採取してRT-PCR解析を行いました。(A):嗅球の脳由来神経栄養因子(BDNF)遺伝子発現。(B):海馬のBDNF遺伝子発現。(C):中脳のチロシン水酸化酵素(TH)遺伝子発現。結果はGAPDH遺伝子発現量に対する割合(%)の平均値±SEM(n=5)を示しています。* P < 0.05,** P < 0.01 (Student’s t-test)。

5-5.タイム・リナロール 6,7)

 ストレスは疲労につながることが知られています。疲労にはさまざまなメカニズムが関与していますが、最近特に注目されている脳疲労は、脳で発生した炎症が全身に影響を与えることで引き起こされます。私たちは、脳疲労モデル動物に対するタイム・リナロール(Thymus vulgaris ct. linalool、以後「タイム」と記します。)の影響を調べました6) 。脳疲労モデルとしては、ポリイノシン:ポリリボシチジル酸(poly I:C)を20 mg/kg腹腔内(i.p.)投与したマウスを用いました。この動物に蒸留水またはタイムを吸入(i.h.)させた後、回転ケージを用いて自発運動量を測定したところ、タイム吸入群の自発運動量は対照群より有意に増加しました(図7)。この結果は、タイムの抗疲労効果を示唆しています。また、タイムは海馬におけるインターロイキン6(IL6, 炎症性サイトカインの一つ)の遺伝子発現レベルを有意に低下させ(図8A)、BDNF遺伝子発現レベルを有意に増加させました(図8B)。
図7.タイムがマウスの行動量に及ぼす影響

図7.タイムがマウスの行動量に及ぼす影響
 マウスに生理食塩水あるいはpoly I:C(10 mg/kg)を腹腔内(i.p.)投与しました。蒸留水あるいはタイム(EOT、10 mL/5L空気)を吸入(i.h.)後、15時間における輪回しの回転速度率(%)を計測しました。結果は平均値±SEM(n=8)を示しています。*** P < 0.001(Tukey-Kramer test)。

図8.タイムが脳内遺伝子発現レベルに及ぼす影響

図8.タイムが脳内遺伝子発現レベルに及ぼす影響
 マウスにpoly I:Cを20 mg/kgあるいは生理食塩水を腹腔内(i.p.)投与しました。蒸留水あるいはタイム(EOT、10 mL/5L空気)を吸入(i.h.)後、海馬を採取してRT-PCR解析を行いました。(A):インターロイキン-6(IL-6)遺伝子発現。(B):脳由来神経栄養因子(BDNF)遺伝子発現。結果はGAPDH遺伝子発現量に対する比(%)の平均値±標準誤差(n=5-7)を示しています。* P < 0.05, ** P < 0.01, *** P < 0.001(Tukey-Kramer test)。

 次に、タイムの抗不安効果を調べました7) 。マウスを単独飼育した後、3群: 無処置群、生理食塩水投与群(i.p.)、poly I:C投与群(i.p.)に分けました。タイムを90分間吸入後、無処置群に有意な変化は認められませんでした(図9A)が、脳疲労モデルでは有意な抗不安作用が観察されました(図9C)。したがって、タイムの香りは抗疲労および抗不安作用を有していると考えられます。しかし、タイムは生理食塩水投与群においてもオープンアーム滞在時間を有意に増加させました(図9B)。
図9.タイムがマウスの行動に及ぼす影響

図9.タイムがマウスの行動に及ぼす影響
 単独飼育によってストレスを負荷されたマウスに蒸留水あるいはタイム(EOT、2 mL/L空気)を吸入投与した後に高架式十字迷路試験を行いました。(A):EOTを吸入した群。(B):生理食塩水を腹腔内投与した後にEOTを吸入した群。C:Poly I:Cを腹腔内投与した後にEOTを吸入した群。結果は平均値±標準誤差(n=5)を示しています。* P < 0.05, ** P < 0.01, *** P < 0.001(Student’s t-test)。

 匂い分子が生体に及ぼす影響には、嗅覚経路を介する作用だけでなく、経鼻・経皮吸収による血流を介した作用が含まれています。しかし、揮発性分子の脳への移行性には未だ不明な点が多いのが現状です。嗅覚受容体は、植物精油の主要な揮発性成分であるモノテルペンを匂いとして認識し、情動に変化が生じると考えられている一方、ほとんどのモノテルペンは血液脳関門を通過するため、精油成分は血流を介して中枢神経系に直接作用する可能性があります。私たちは、タイムを吸入後に精油の主成分であるリナロールの脳内濃度をGC/MSによって分析した結果、poly I:C群の方が無処置群より有意に高いことが分かりました(図10)。興味深いことに、生理食塩水投与群でもリナロール濃度の増加が観察されました(図10)。したがって、ストレスや炎症が血液脳関門を破綻させる可能性があり、その結果として、タイムの抗不安作用/抗疲労作用が高まると考えられます。匂い分子の脳移行性が腹腔内投与などの機械的ストレスによって変化するメカニズムの解明は、今後の課題です。

図10.タイム吸入後のマウス脳内リナロールの濃度
単独飼育したマウスを用い、タイム(EOT)吸入(i.h.)、生理食塩水の腹腔内(i.p.)投与後にEOT i.h.、およびpoly I:C i.p.投与後にEOT i.h.を行いました。(A):EOT 2 mL/L空気吸入後の脳内リナロール濃度。(B):EOT 4 mL/L空気吸入後の脳内リナロール濃度。結果は平均値±標準誤差(n=4)を示しています。* P <0.05, ** P <0.01(Tukey-Kramer test)。

6.おわりに

 今回は、匂いと脳のストレス応答について明らかになってきたことを紹介しました。過去の研究の多くは、特定の香りがストレスレベルを抑制する可能性を示唆していますが、最近の神経薬理学/生化学的研究は、その可能性を支持する科学的証拠を提供しています。なお、匂いにはストレスを誘発あるいは増強する面があることも忘れてはいけません。嗅覚と脳のストレス反応の関係を明らかにするためには、今後多角的な分析が必要であると考えます。揮発性成分の吸入投与量を正確に管理する工夫も必要になってくるでしょう。嗅覚とストレス応答の脳内メカニズムが解明されることにより、生体の理解が深まるとともに、科学的根拠に基づいた揮発性成分の有効利用が可能になります。例えば、匂い分子はアロマセラピーだけでなく、食品の開発等にも有用であると考えられます。実際、私たちはゴマ油の香りにはストレス抑制効果があることを明らかにしています8)。匂い分子が生体に及ぼす影響について、今後さらに研究が進み、メンタルヘルスに貢献することが期待されます。

謝辞

 ご指導を賜りました、故・金澤一郎先生、故・融通男先生、故・渡辺修三先生、故・Jacques Glowinski先生、ならびにWilliam Rostène先生(INSERM(フランス国立保健・医学研究所))に深謝申し上げます。筆者が産業技術総合研究所(産総研)で香りとストレスに関する研究を始めたのは2007年のことでした。産総研在職中ご支援・ご指導を賜りました、二木悦雄先生(東京大学名誉教授)、岩橋 仁先生(現在 岐阜大学教授)、Rakwal Randeep先生(現在 筑波大学教授)、ならびに共同研究をさせて頂きました石堂正美先生(国立環境研究所シニア研究員、大学院時代の同級生)に対し、心より御礼申し上げます。2010年より現職で香りの研究を続けられましたのも、小池一男先生(東邦大学薬学部生薬学教室教授)、竹元裕明先生(同教室講師)、佐藤忠章先生(同教室准教授、現在 国際医療福祉大学准教授)のお蔭と感謝申し上げております。末筆ながら、東邦大学理学部生物学科/大学院理学研究科生物学専攻人間生物学部門神経科学研究室ならびに薬学部生薬学教室の学部生/大学院生の皆様に御礼申し上げます。

引用文献

  1. Masuo Y, Satou T, Takemoto H, Koike K. Smell and stress response in the brain: review of the connection between chemistry and neuropharmacology. Molecules 2021 Apr 28;26(9):2571, doi: 10.3390/molecules26092571.
  2. Seo H-S, Hirano M, Shibato J, Rakwal R, Hwang, IK, Masuo Y. Effects of coffee bean aroma on the rat brain stressed by sleep deprivation: a selected transcript- and 2D gel-based proteome analysis. J. Agric. Food Chem. 2008 Jun 25;56(12):4665-73. doi: 10.1021/jf8001137.
  3. Takahashi M, Yoshino A, Yamanaka A, Asanuma C, Satou T, Hayashi S, Masuo Y, Sadamoto K, Koike K. Effects of inhaled lavender essential oil on stress-loaded animals: changes in anxiety-related behavior and expression levels of selected mRNAs and proteins. Nat. Prod. Commun. 2012 Nov;7(11):1539-1544, doi:10.1177/1934578x1200701132.
  4. Kasuya H, Hata E, Satou T, Yoshikawa M, Hayashi S, Masuo Y, Koike K. Effect on emotional behavior and stress by inhalation of the essential oil from Chamaecyparis obtusa. Nat. Prod. Commun. 2013 Apr;8(4):515-518, doi:10.1177/1934578x1300800428.
  5. Kasuya H, Okada N, Kubohara M, Satou T, Masuo Y, Koike K. Expression of BDNF and TH mRNA in the brain following inhaled administration of α-pinene. Phytother. Res. 2015 Jan;29(1):43-47, doi: 10.1002/ptr.5224.
  6. Hayakawa M, Satou T, Koike K, Masuo Y. Anti-fatigue activity of essential oil from thyme (linalool chemotype) in the pol-yriboinosinic:polyribocytidylic acid-induced brain fatigue mouse. Flavour Fragr. J. 2016, 31, 395–399, doi:10.1002/ffj.3328.
  7. Satou T, Hayakawa M, Goto Y, Masuo Y, Koike K. Anxiolytic-like effects of essential oil from Thymus vulgaris was in-creased during stress. Flavour Fragr. J. 2018, 33, 191–195, doi:10.1002/ffj.3434.
  8. Takemoto H, Take C, Kojima K, Kuga Y, Hamada T, Yasugi T, Kato N, Koike K, Masuo Y. Effects of sesame oil aroma on mice after exposure to water immersion stress: analysis of behavior and gene expression in the brain. Molecules 2020 Dec 14;25(24):5915. doi: 10.3390/molecules25245915.

神経科学研究室 増尾 好則

お問い合わせ先

東邦大学 理学部

〒274-8510
千葉県船橋市三山2-2-1
習志野学事部

【入試広報課】
TEL:047-472-0666

【学事課(教務)】
TEL:047-472-7208

【キャリアセンター(就職)】
TEL:047-472-1823

【学部長室】
TEL:047-472-7110

お問い合わせフォーム