匂いと脳のストレス応答
1. はじめに
2.におい
3.ストレスを誘発する匂い
しかし、匂いストレスも諸刃の剣であるといえます。母親が妊娠中に捕食者の匂いストレスを受けると、その仔は不慣れな環境に対する感受性が低くなることから、捕食されやすくなってしまいます。思春期のげっ歯類に対するキツネやコヨーテの尿の匂いは強いストレスとなり、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの精神障害発症につながるといわれています。実際、キツネの糞に含まれる匂い分子2,5-ジヒドロ-2,4,5-トリメチルチアゾリン(TMT)をげっ歯類に吸引させるとPTSDを誘発することが示唆されています。また、オオカミの尿に含まれている3つのピラジン類似体の混合物は、マウスの恐怖関連反応を誘発すると報告されています。一方、ストレスを感じたラットは特定の匂いを放ち、それを感知した他のラットは危険を回避することが可能になります。この匂いは、他のラットの不安レベルを高めるフェロモンであり、4-メチルペンタナールおよびヘキサナールと関連があると考えられています。このような匂い分子について解析することは、哺乳類による化学的コミュニケーションの理解に役立つ可能性があります。なお、匂いストレスに対する反応には性差があることも指摘されています。
4.ストレスを抑制する匂い
4-1.ヒトへの影響
ラベンダーやローズマリーはフリーラジカルの除去を促進し、ヒトの唾液中コルチゾールレベルを低下させることが明らかにされています。ラベンダー、イランイラン、マジョラム、ネロリの混合物 (20:15:10:2)は、ストレスレベルを抑制し、高血圧を制御するようなリラックス効果を有するといいます。また、柑橘類に含まれる代表的なモノテルペンであるリモネンの香りは、ヒトの健康に役立つ可能性が示唆されています。ヒトがホテルで3泊する際、ヒノキ(Chamaecyparis obtuse)の幹から採ったオイルを気化させて芳香性揮発性物質 (フィトンチッド)を夜間に吸引させたところ、血液中のナチュラルキラー(NK)細胞の活性と比率が大幅に上昇し、尿中のT細胞の割合およびアドレナリンとノルアドレナリンの濃度が低下したという論文があります。ホテルの客室の空気からはα-ピネンやβ-ピネンなどのフィトンチッドが検出されたそうです。したがって、フィトンチッドへの曝露は、ストレスホルモンレベルの低下とNK活性の上昇を引き起こし、免疫機能が強化されると考えられます。同様に、スギ(Cryptomeria japonica)の木から抽出された精油による嗅覚刺激は女性の気分を変え、交感神経活動を一時的に抑制することが明らかにされています。脂肪族アルデヒドの一つであるシス-3-ヘキセノールは、トランス-2-ヘキセナールの異性体とともに緑葉アルデヒドの別名をもつ、草や葉の匂いの主要な成分です。両者の混合物がもつ抗疲労効果には、嗅覚受容体を介した嗅覚経路が関与していることが示唆されています。ヨモギ(Artemisia montana)の精油に含まれる揮発性成分は、経鼻吸収後にストレスを軽減することが明らかにされており、その鎮静効果は1,8-シネオールによるものであると考えられています。合法的ヘンプ(麻)品種から抽出した精油の主成分はミルセンとβ-カリオフィレンであり、吸入すると脳波活動と自律神経系に影響を与えます。したがって、カンナビス(大麻、マリファナ)の精油がストレスやうつ病、および不安において神経調節作用を有すると考えられています。このように、ストレスを抑制する匂いが多数知られており、実際にアロマセラピー等に利用されています。しかし、香りが脳のストレス応答に及ぼす影響のメカニズムはまだ解明されていません。
4-2.ラットへの影響
前述の緑の匂い(シス-3-ヘキセノールとトランス-2-ヘキセナールの混合物)は、大脳皮質前頭前野のニューロン活動に影響を与える可能性があり、抑うつ状態の治療効果が期待出来ます。その効果は、緑の匂いが海馬を活性化することに基づくと考えられています。母親から早期に分離したラットのストレスに対するヒノキ精油の影響が研究されました。ヒノキの吸入はストレスによる不安様行動を減少させるとともに、海馬におけるサイトカイン遺伝子の発現を低下させました。ヒノキの香りは、母子分離によって誘発される不安様行動を減衰させ、海馬のサイトカイン、特に Ccl2 および Il6 を調節する可能性が示唆されています。リモネン (91.11%)を主成分としてγ-テルピネン(2.02%)、β-ミルセン (1.92%)、β-ピネン(1.76%)、α-ピネン(1.01%)などを含有する精油混合物は、抗健忘症効果の重要なメカニズムであるコリンエステラーゼ(アセチルコリン分解酵素)を阻害するとともに、スコポラミンによって誘発された記憶障害および酸化ストレスを逆転させることが示されました。この精油混合物の吸入は、脳内のコリン作動性システムの活性化と抗酸化状態の回復によって記憶障害を改善し得るものと考えられます。
4-3.マウスへの影響
木の香り (ヒノキチオール)はTMMT誘発ストレスを改善することが、血漿中コルチコトロピンレベルと脳内c-Fos免疫反応性によって示唆されました。フィトセラピーでは、精油は1回の塗布ではなく、数日または数週間にわたって毎日使用される傾向があるため、精油成分であるα-ピネンの吸入がマウスの行動と脳と肝臓への蓄積に及ぼす影響が解析されています。その結果、α-ピネンを5日間吸入している間、有意な抗不安様作用が認められました。しかし、脳と肝臓におけるα-ピネンの蓄積は、吸入3日目にピークに達していたことから、ストレスは内臓におけるα-ピネン蓄積に影響を及ぼし、抗不安様作用を一定に保つと考えられています。ネーブルオレンジ(Citrus sinensis (L.) Osbeck)精油とその主要な揮発性成分であるリモネンが、予測不能な軽度のストレスを慢性的に受けたマウスに与える影響が報告されています。精油の吸入により、ストレス曝露マウスのうつ病様行動や症状が有意に回復しています。リモネンは、ストレスが誘発する抑うつ行動、HPA 軸の活動亢進、モノアミン神経伝達物質レベルの低下を大幅に改善することが明らかになりました。さらに、リモネンはストレスによる海馬BDNFとその受容体発現の低下を抑制しました。したがって、リモネンの抗うつ効果が期待されます。
5.香りが行動や脳内因子の発現に及ぼす影響
5-1.コーヒー豆 2)
私たちは、コーヒー豆の香りがストレスを軽減することを脳内遺伝子の発現変化としての証明を試みました。コーヒー飲用の効果として、ストレスを和らげること、およびうつ病や自殺のリスクを減らすことが報告されています。これまでの研究は不揮発性成分であるカフェインに焦点を当てていますが、カフェインの覚醒作用はストレスになる可能性があります。一方、揮発性成分による脳内の変化は解明されていませんでした。私たちは、ラットを4群(対照群、ストレス群、コーヒー群、ストレス+コーヒー群)に分け、24時間飼育しました。ストレスとしては、軽微である水浸ストレス(床敷の代わりに水を入れたストレス)を負荷しました。その後、脳を解析したところ、ストレスにより生じた発現変化がコーヒー豆の香りによって抑制された因子として、神経成長因子受容体(NGFR)、高親和性神経栄養性チロシンキナーゼ、受容体タイプ3(trkC)、グルココルチコイド誘導受容体(GIR)などの遺伝子、およびチオール特異的抗酸化蛋白質や熱ショック70 kDa蛋白質5がみつかりました。各因子の機能に基づくと、コーヒー豆の香りは抗酸化作用やストレス緩和作用をもつことが示唆されました。神経成長因子(NGF)は酸化ストレスに耐性があり、細胞の生存・維持に働きます。NGFR遺伝子の発現量はストレス群で減少しましたが、ストレス+コーヒー群はストレス群より高レベルを示しました(図1)。したがって、コーヒー豆の香りは水浸ストレスによる酸化ストレスを抑制すると考えられます。ストレスは、生体にとって良い「快ストレス」と悪い「不快ストレス」に分けられますが、本研究結果は、香りが快ストレスを誘発したことを示唆するものです。
5-2.ラベンダー 3)
ラベンダー (Lavandula officinalis) 精油 (LvEO) が生体に及ぼす影響を解析しました。マウスを4群(対照群、ストレス群、LvEO群、ストレス+LvEO群)に分け、24時間飼育しました。ストレスとしては水浸ストレスを採用しました。その後、蒸留水またはLvEOを90分間吸入させました。ストレスは不安様行動を誘発することが分かっているため、高架式十字迷路試験によってマウスの不安様行動の評価を行いました。高架式十字迷路は、図2に示す通り、4方向のアームのうち2方向には壁があり(クローズドアーム)、それ以外には壁がありません(オープンアーム)。行動解析は、十字迷路の中央にマウスを置いてビデオ撮影した後、画像解析によって行い、一定時間当たりの総移動距離、およびオープンアームへの進入率と滞在時間を計測しました。これまでの研究により、動物は不安であるほどクローズドアームへの進入率が高くなり、クローズドアームでの滞在時間が長くなることが分かっています。したがって、オープンアームへの進入率や滞在時間を明らかにすることによって不安度を評価することが出来ます。本研究では、マウスがLvEOを吸入したとき、ストレスの有無に関わらずオープンアームへの侵入率と滞在時間は有意に増加しました。また、ストレス+LvEO群のオープンアームへの進入率、滞在時間および総運動量は対照群より有意に高いことが分かりました。これらの結果は、LvEOの抗不安作用を強く示唆しています。脳内活性調節細胞骨格関連蛋白質(Arc)mRNA発現量においては、ストレス群とLvEO群は対照群より有意に低く、ストレス+LvEO群は対照群と同等でした(図3A)。NGFR 遺伝子もArcと同様の発現変化を示しましたが、ストレス+LvEO群は対照群より有意に高レベルでした(図3B)。したがって、LvEOは抗ストレス作用を有すると考えられます。海馬歯状回の免疫組織化学では、ガラクトキナーゼ1(GLK1)陽性細胞数はストレス群で有意に増加し、ストレス+LvEO群では対照群と同レベルまで低下した(図4)ことから、LvEOはストレスによる覚醒・不眠によるエネルギー消費(代謝亢進)を抑制し、鎮静効果を発揮する可能性があります。
図3.ラベンダーがマウス脳内遺伝子発現レベルに及ぼす影響
水浸ストレス負荷後、蒸留水あるいはラベンダー精油(LvEO)を吸入したマウスの全脳を用いてRT-PCR解析を行いました。(A):脳内活性調節細胞骨格関連蛋白質(Arc)遺伝子の発現レベル。(B):神経成長因子受容遺体(NGFR)遺伝子の発現レベル。結果はglyceraldehyde-3-phosphate dehydrogenase(GAPDH)発現量に対するパーセンテージの平均値±SEM(n=4)を示しています。* P < 0.05(Tukey-Kramer’s HSD test)。
図4.ラベンダーがマウス脳内蛋白質発現レベルに及ぼす影響
水浸ストレス負荷後、蒸留水あるいはラベンダー精油(LvEO)を吸入したマウスの脳切片を作製し、抗ガラクトキナーゼ1(GLK1)抗体を用いて免疫組織化学染色を行いました。(A):海馬のNissl染色像。(B):海馬歯状回におけるGLK1陽性細胞。左図は歯状回((A)の四角内)の免疫組織化学染色例。結果はNissl染色細胞数に対する比率(%)の平均値±SEM(n=4)を示しています。* P < 0.05(Tukey-Kramer’s HSD test)。
5-3.ヒノキ 4)
5-4.α-ピネン 5)
図5.α-ピネンがマウスの行動に及ぼす影響
ストレスを負荷したマウスに蒸留水またはα-ピネンを60分間あるいは90分間吸入させた後、高架式十時迷路試験を行いました。(A):総移動距離(m)。(B):オープンアームへの進入率(%)。(C):オープンアームでの滞在時間(秒)。結果は平均値±SEM(n=5)を示しています。* P < 0.05, *** P < 0.001 (Student’s t-test)
図6.α-ピネンが脳内遺伝子発現レベルに及ぼす影響
ストレスを負荷したマウスに蒸留水あるいはα-ピネンを吸入させた後、嗅球、海馬、中脳を採取してRT-PCR解析を行いました。(A):嗅球の脳由来神経栄養因子(BDNF)遺伝子発現。(B):海馬のBDNF遺伝子発現。(C):中脳のチロシン水酸化酵素(TH)遺伝子発現。結果はGAPDH遺伝子発現量に対する割合(%)の平均値±SEM(n=5)を示しています。* P < 0.05,** P < 0.01 (Student’s t-test)。
5-5.タイム・リナロール 6,7)
図7.タイムがマウスの行動量に及ぼす影響
マウスに生理食塩水あるいはpoly I:C(10 mg/kg)を腹腔内(i.p.)投与しました。蒸留水あるいはタイム(EOT、10 mL/5L空気)を吸入(i.h.)後、15時間における輪回しの回転速度率(%)を計測しました。結果は平均値±SEM(n=8)を示しています。*** P < 0.001(Tukey-Kramer test)。
図8.タイムが脳内遺伝子発現レベルに及ぼす影響
マウスにpoly I:Cを20 mg/kgあるいは生理食塩水を腹腔内(i.p.)投与しました。蒸留水あるいはタイム(EOT、10 mL/5L空気)を吸入(i.h.)後、海馬を採取してRT-PCR解析を行いました。(A):インターロイキン-6(IL-6)遺伝子発現。(B):脳由来神経栄養因子(BDNF)遺伝子発現。結果はGAPDH遺伝子発現量に対する比(%)の平均値±標準誤差(n=5-7)を示しています。* P < 0.05, ** P < 0.01, *** P < 0.001(Tukey-Kramer test)。
図9.タイムがマウスの行動に及ぼす影響
単独飼育によってストレスを負荷されたマウスに蒸留水あるいはタイム(EOT、2 mL/L空気)を吸入投与した後に高架式十字迷路試験を行いました。(A):EOTを吸入した群。(B):生理食塩水を腹腔内投与した後にEOTを吸入した群。C:Poly I:Cを腹腔内投与した後にEOTを吸入した群。結果は平均値±標準誤差(n=5)を示しています。* P < 0.05, ** P < 0.01, *** P < 0.001(Student’s t-test)。
図10.タイム吸入後のマウス脳内リナロールの濃度
単独飼育したマウスを用い、タイム(EOT)吸入(i.h.)、生理食塩水の腹腔内(i.p.)投与後にEOT i.h.、およびpoly I:C i.p.投与後にEOT i.h.を行いました。(A):EOT 2 mL/L空気吸入後の脳内リナロール濃度。(B):EOT 4 mL/L空気吸入後の脳内リナロール濃度。結果は平均値±標準誤差(n=4)を示しています。* P <0.05, ** P <0.01(Tukey-Kramer test)。
6.おわりに
謝辞
引用文献
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神経科学研究室 増尾 好則