理学部生物学科

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隅田川の水はテムズ川に通じるか—汎世界分布の謎

汎世界分布をめぐって

 「隅田川の水はテムズ川に通じる」というフレーズは,江戸中期に仙台藩士林子平(1738-93)が著した『海国兵談』に由来するとされます.1939年出版の同書岩波文庫本に「江戸の日本橋より唐,阿蘭陀(おらんだ)迄境なしの水路也」とあるのがその原形かもしれません.ともあれ,当時の国際情勢のもとで海防の必要性を述べたこのフレーズは,私が専門とする海洋生物学の分野では,世界の海はつながっているから当然そこに住む生物もつながっているはずだ,ということの比喩としてしばしば使われます.

図1 ミズクラゲ種群 名古屋港で撮影
 たとえば,ミズクラゲAurelia aurita (Linnaeus, 1758)は,世界中のどこの海にも生息する「汎世界分布(コスモポリタン)種」と考えられてきました(図1).ミズクラゲは海面をあてもなく漂い,隅田川河口にもテムズ川河口にもあらわれるというわけです.事実,形を観察する限り,隅田川河口のミズクラゲもテムズ川河口のそれも区別できないと言われています(かりにわずかな違いがあったにしても,それは「個体差」など同じ種内のばらつきとみなされて来ました).そのため,長い間,世界中でたった一つの種として扱われてきたのですが,遺伝情報を調べてみると,それがなんと10種類ほどに分けられるというのです(Dawsonほか,2005).たとえ形がそっくりでも,遺伝情報においてはっきりした違いが見つかれば,遺伝子の交流が絶たれていると考えられますので,別種としてあつかわれます.このような種は隠蔽種cryptic speciesと呼ばれます.遺伝情報が駆使できるようになった現代では,海に住むいろいろな動物群で隠蔽種が続々と見つかり,その結果,「汎世界分布」が否定される例が少なくありません.

 私の守備範囲にある環形動物門のホシムシ綱やユムシ綱—かつてそれぞれ星口動物門,ゆむし動物門とよばれていたのがこのように変わったいきさつは西川(2013)参照—においても,汎世界分布種とみなされてきたものがかなりあり,私の研究室でも遺伝情報を使ってその真偽の程を追求しているところです.

日本のミズクラゲは世界に分布—人為的分散か

 ミズクラゲにもどりますと,Aurelia auritaという種名は北大西洋に生息するものに限定して使われることになりました.それは、リンネがこの学名を設立した時、対象とした個体群は北ヨーロッパのバルト海に分布すると明示していたからです(『自然の体系』第10版).一方,日本周辺の個体群はこれとは別種の「Aurelia sp. 1」と呼ばれています(学名はまだ付いていません).さきほど隠蔽種が10ほど見つかったと書きましたが,その大部分は生息域がかなり限定されています.ニュージーランド周辺にしか生息しない種とかメキシコ湾でしか見つかっていない種もあります.海はたしかにつながっていますが,遺伝子の交流を妨げるいろいろな要因が働く結果,種が分かれていくことになります.

 ところが,意外なことに,この「Aurelia sp. 1」だけはヨーロッパ海域をふくめ世界各地にそれこそ「汎世界分布」していることがわかりました.やはり,「隅田川の水はテムズ川に通じる」のでしょうか.上記Dawsonほかの研究によれば,どうもそうではなく,人間活動に伴って世界に広がった可能性が高いとされ,原産地は日本近海と推定されています.本来の生息域から人為的に外に広がった生物の例は,いわゆる外来種として多数知られており,海の生物ももちろん例外でないことはご存知のとおりです.
図2 オナガナメクジウオ種群 立川浩之氏提供

オナガナメクジウオ種群の研究から

 ナメクジウオ類(脊索動物門・頭索動物亜門)の一つで,熱帯域のサンゴ礁周辺の浅い海の海底の砂中に潜むオナガナメクジウオAsymmnetron lucayanum Andrews, 1893という種は長い間,太平洋にも大西洋にもインド洋にも広く分布するものと考えられて来ました(図2).ところが,私たちの研究によって,そうではないことがわかったのです(Konほか,2006).なお、ナメクジウオ類とは何かについては、すでにこのコーナーで執筆した「ヒガシナメクジウオの氏素性」のなかでご紹介してありますので御参照ください.

 私たちが太平洋,インド洋,そして大西洋の各熱帯水域から採集したオナガナメクジウオの標本は,形態をよく調べても差異が全く見つかりませんでしたが,ミトコンドリアのCOIという遺伝子の塩基配列を調べて比較してみると,3つの群にはっきりと分かれるのです.図3でClade A~Cとしているのがそれです.Clade Cは大西洋西部にしか生息しません(調査したのはバミューダ諸島とバルバドス).A.lucayanumという種を設立する時に使われた標本は大西洋西部で採集されましたので,Clade CはA.lucayanumと呼ぶことができます.Clade A(以下, A種と呼びます)は沖縄を含む西太平洋とインド洋(モルジブ諸島),そしてClade B(B種)はハワイ諸島と沖縄を含む西太平洋,それにKonほかの上記論文出版後にインド洋(アフリカ東岸タンザニア)からも生息が確認されています.そしてそれぞれの群のなかの遺伝的なばらつきを調べてみると,広い分布域のなかで遺伝的な交流が頻繁に起こっていることが分かりました.幼生の浮遊期間がかなり長いことがこのような結果をもたらしていると考えられます.なお,沖縄にはA種とB種が共存している場所があります.これら2つは形態では区別できませんので,そこでとれた個体がどちらの種かを決めるにはどうしても遺伝子を調べなければならないことになります.

図3 オナガナメクジウオ種群の系統樹 ミトコンドリアCOI遺伝子の1035塩基を近隣結合法で解析. 線上の数値はブーツストラップ確率を示す. Kon他(2006)のFig. 3aを改変して引用.
 これら3種がいつ頃分かれたか、つまり分岐年代を推定したところ,A種と[B種+A.lucayanum]が分岐したのは今から約1億年前,B種とA.lucayanumが分岐したのは今から約1300万年前と算出されました(その後、深海性の同属別種が発見されたのでそれを加え、ミトコンドリアゲノムのすべての遺伝子を使って分岐年代を推定したところ,わずかに違う数値が出ましたが,以下の議論に影響ありませんのでこのまま話を続けます;詳しく知りたい方はKon et al. (2007)および昆ほか(2008)をご覧ください).つまり,現在生きているオナガナメクジウオ種群の最も新しい共通祖先は約1億年前まで遡ることができますので,それ以来形態を変えていないという解釈も可能です.A種と[B種+A.lucayanum]が分岐した約1億年前は,大陸が裂けて大西洋ができはじめた頃です.それで私たちは,現在のインド洋あたりに生息していた祖先種(今日のA種)の一部がまさに出来つつあった大西洋に入りこみ,A種との遺伝的交流が断たれた結果,現在のA.lucayanumに相当する種が成立したというストーリーを考えました.それではB種はというと,A.lucayanumとB種が分岐した約1300万年前は南米と北米をつなぐパナマ地峡がちょうど開いた(海に没した)時期にあたることから,ここを通ってA.lucayanumの一部が大西洋から太平洋に入りこんだ結果A.lucayanumとの遺伝的交流が断たれたことにより,B種が成立したと推測しました.

 標本を世界各地から採集し,そこから遺伝情報を抽出し,それをもとに網羅的な系統樹を描き,年代推定を行うという一連の作業は,時間も労力もお金もかかってとても大変ですが,その結果をもとに進化の過程をあれこれ想像していると,タイムマシンに乗っているような不思議な感覚にとらわれます.これも研究の楽しさと言えます.

系統分類学研究室
西川輝昭

引用文献

  1. Dawson, M. N., A. S. Gupta and M. H. England 2005. Coupled biophysical global ocean model and molecular genetic analyses identify multiple introductions of cryptogenic species. PNAS, 102: 11968-11973.
  2. Kon, T., M. Nohara, M. Nishida, W. Sterrer and T. Nishikawa 2006. Hidden ancient diversification in the circumtropical lancelet Asymmnetron lucayanum complex. Marine Biology, 149:875-883.
  3. Kon, T., M. Nohara, Y. Yamanoue, Y. Fujiwara, M. Nishida and T. Nishikawa 2007. Phylogenetic position of a whale-fall lancelet (Cephalochordata) inferred from whole mitochondrial genome sequences. BMC Evolutionary Biology, 7, art. no. 127.
  4. 昆健志・野原正広・山野上裕介・藤原義弘・西田睦・西川輝昭 2008. ゲイコツナメクジウオの進化. 月刊海洋, 40: 295-303.
  5. 西川輝昭 2013. 生物の系統と新しい分類体系 第7回 動物[哺乳類を除く]—その多様性と進化の全体像. 生物の科学 遺伝, 67(1): 89-94.

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