鳥島におけるアホウドリ繁殖集団の再確立
19世紀末に始められた羽毛採取のための大量捕獲によって、大型海鳥のアホウドリは急速に個体数を減らし、1949年には地球上から姿を消したと信じられた。しかし、1951年1月に、かつておびただしい数で繁殖していた伊豆諸島最南部にある火山島の鳥島で、10羽ほどが生き残って繁殖していることが確認され、アホウドリは「再発見」された。それから約60年たった現在、鳥島集団の総個体数は推定で約3,000羽に回復した。鳥島のアホウドリ集団が再確立する日は近い。
「再発見」後、当時、鳥島にあった気象観測所の人びとが、ハチジョウススキを植栽して営巣環境を改善したり、ひなを捕食するおそれのある野生化したネコを退治したりして、アホウドリの保護・監視に当たった。この初期の保護活動の結果、繁殖つがい数が少しずつ増え、1960年代前半には25組前後のつがいが産卵し、10~11羽のひなが巣立つようになった。この繁殖集団の増加は、再発見後に鳥島から巣立った幼鳥が成長して繁殖集団に加わっただけでなく、北太平洋の広大な海で生活し、人間による捕獲から逃れていた個体が少しずつ鳥島に帰還したことによる。
こうして、アホウドリの保護活動と監視調査が軌道に乗ろうとしていた矢先の1965年11月に、鳥島を群発地震がおそった。地震は火山噴火の兆候と判断され、気象観測所は閉鎖され、全員撤退した。結局、噴火はしなかったが、その後、噴火のおそれがあって危険な状態がつづいていると考えられた鳥島に上陸して、アホウドリの繁殖状況を調査する人はいなかった。
鳥島が無人になってから8年半後の1973年4月末、イギリス海軍の支援を受けてイギリス人研究者が鳥島に上陸し、アホウドリの繁殖状況を調査した。その人は、南半球に生息するアホウドリ類を研究したランス・ティッケル博士(Dr. Lance Tickell)だった。ぼくは24歳のとき、偶然、その調査を終わったばかりの彼に出会い、強い刺激を受けて、絶滅危惧種のアホウドリを保護する研究に着手した。まだ若くて元気だったぼくは、“20世紀の後半に、日本に生きる、鳥好きの動物学者の責任を果たさなければ”という決意で、「アホウドリの再生」という困難な課題に取り組み、自分自身を試すことにした。
アホウドリは、1947年9月に「狩猟鳥獣」から指定解除され、捕獲が禁止された。個体数減少の原因がなくなり、アホウドリの個体数は急速に増えるはずだった。ティッケル博士が調査したとき、24羽のひなが観察され、期待通りの順調な増加であった。しかし、翌年の繁殖期にNHK取材チームが撮影したとき、ひなはたった11羽で、さらに3年後の1977年3月下旬に、ぼくが初めて調査したとき、ひなの数は15羽だった。営巣地で観察された成鳥や繁殖年齢に達していない若い鳥の数は少しずつ増えていたが、巣立つ予定のひなの数はほぼ半減し、1960年代のひな数に逆戻りしていた。
もし、巣立ちひな数が少ない状態がつづけば、成長して繁殖年齢に達する個体数よりも成鳥の自然死亡数のほうが多くなり、いずれ繁殖集団が減少することになりかねない。したがって、卵やひなの事故死を減らして、繁殖成功率を引き上げ、なるべくたくさんのひなが巣立つようにすることが緊急の課題であった。
それから5年後の1981年から、環境庁・東京都と協力して、植生が衰退し、裸地状態になっていた営巣地にハチジョウススキとイソギクの株を移植する植栽工事を行なって地面を安定させ、しっかりした巣の形成を促し、突風による砂嵐の影響を軽減した。その結果、移植直前に平均44%だった繁殖成功率は移植後に67%へと大幅に改善され、1984-85年繁殖期には50羽を超すひなが巣立つようになった。保護計画は成功を収めた。
しかし、1987年秋に、営巣地のある火山灰が堆積した斜面で、おそらく台風の大雨によって地滑り(表層崩壊)が起こり、土石流となって一気に海岸まで流れ下った。そして、翌年以降、頻繁に泥流が発生して営巣地に流れ込むようになり、移植したススキは枯死し、卵やひなは泥流に押し流されたり、埋まったりして事故死が増え、繁殖成功率は40%台に低下して、巣立ちひな数は50羽から66羽にとどまった。
この危機への対処として、1)砂防工事によって従来の営巣地を保全し、そこに再び草(黒穂病が発生したススキの代わりに、シバとチガヤを用いた)を移植して、好適な営巣地を造成し、繁殖成功率を引き上げて巣立つひなの数を増やし、2)そこから巣立った幼鳥が成長して鳥島にもどってきたとき、デコイと音声を用いて、地滑りや泥流が起こるおそれのない鳥島の別の斜面に誘引し、定着させ、新営巣地を形成する、という2つの課題を提案した。
第1の課題は、環境省と東京都と協力して1993年から取り組まれ、5年間で成功を収めた。従来営巣地での繁殖成功率は、1997-98年繁殖期に67%に回復し、そこから100羽以上のひなが巣立った。それ以後、春の嵐が襲った2004-05年繁殖期と、その影響から回復できなかった翌年の繁殖期を除けば、繁殖成功率は64%以上に維持され、最近5年間は平均して70%となった。従来営巣地からの巣立ちひな数は2006-07年繁殖期に200羽を超え、2011-12年繁殖期には403組のつがいが繁殖し、275羽のひなが巣立った。
第2の課題である「デコイ作戦」は、環境省や山階鳥類研究所と協力して、1992-93年繁殖期から始められた。鳥島の北西側斜面にデコイをならべ、そこから録音したアホウドリの音声を再生した。幸先よく、3年後の1995-96年繁殖期に1組のつがいが産卵してひなが巣立ったが、その後、繁殖つがい数はなかなか増えなかった。「作戦」の開始から12年後の2004−05年繁殖期に、ついに4組のつがいが産卵して、新営巣地が形成された。そして、以後、従来コロニーから若い個体が移入して、新営巣地で繁殖するつがい数は急速に増え、2011-12年繁殖期には102組が繁殖し、72羽のひなが巣立つまでになった。ここでの繁殖成功率は平均して73%で、従来営巣地よりも高い。
この他に、従来営巣地の上部にある断崖の上側に広がる平坦な場所で、2004-05年繁殖期から2組のつがいが自然に繁殖を開始し、小さな新営巣地が形成された。ここでは、2011-12年繁殖期に7組のつがいが繁殖し、6羽のひなが巣立った。
こうして、鳥島全体では2011-12年繁殖期に合計512組のつがいが繁殖し、353羽のひなが巣立った(図1)。そして、巣立った幼鳥を含めると鳥島集団の総個体数は推定で約3,000羽(推定個体数:成鳥1254羽、若鳥1394羽)になった。
「再発見」後、当時、鳥島にあった気象観測所の人びとが、ハチジョウススキを植栽して営巣環境を改善したり、ひなを捕食するおそれのある野生化したネコを退治したりして、アホウドリの保護・監視に当たった。この初期の保護活動の結果、繁殖つがい数が少しずつ増え、1960年代前半には25組前後のつがいが産卵し、10~11羽のひなが巣立つようになった。この繁殖集団の増加は、再発見後に鳥島から巣立った幼鳥が成長して繁殖集団に加わっただけでなく、北太平洋の広大な海で生活し、人間による捕獲から逃れていた個体が少しずつ鳥島に帰還したことによる。
こうして、アホウドリの保護活動と監視調査が軌道に乗ろうとしていた矢先の1965年11月に、鳥島を群発地震がおそった。地震は火山噴火の兆候と判断され、気象観測所は閉鎖され、全員撤退した。結局、噴火はしなかったが、その後、噴火のおそれがあって危険な状態がつづいていると考えられた鳥島に上陸して、アホウドリの繁殖状況を調査する人はいなかった。
鳥島が無人になってから8年半後の1973年4月末、イギリス海軍の支援を受けてイギリス人研究者が鳥島に上陸し、アホウドリの繁殖状況を調査した。その人は、南半球に生息するアホウドリ類を研究したランス・ティッケル博士(Dr. Lance Tickell)だった。ぼくは24歳のとき、偶然、その調査を終わったばかりの彼に出会い、強い刺激を受けて、絶滅危惧種のアホウドリを保護する研究に着手した。まだ若くて元気だったぼくは、“20世紀の後半に、日本に生きる、鳥好きの動物学者の責任を果たさなければ”という決意で、「アホウドリの再生」という困難な課題に取り組み、自分自身を試すことにした。
アホウドリは、1947年9月に「狩猟鳥獣」から指定解除され、捕獲が禁止された。個体数減少の原因がなくなり、アホウドリの個体数は急速に増えるはずだった。ティッケル博士が調査したとき、24羽のひなが観察され、期待通りの順調な増加であった。しかし、翌年の繁殖期にNHK取材チームが撮影したとき、ひなはたった11羽で、さらに3年後の1977年3月下旬に、ぼくが初めて調査したとき、ひなの数は15羽だった。営巣地で観察された成鳥や繁殖年齢に達していない若い鳥の数は少しずつ増えていたが、巣立つ予定のひなの数はほぼ半減し、1960年代のひな数に逆戻りしていた。
もし、巣立ちひな数が少ない状態がつづけば、成長して繁殖年齢に達する個体数よりも成鳥の自然死亡数のほうが多くなり、いずれ繁殖集団が減少することになりかねない。したがって、卵やひなの事故死を減らして、繁殖成功率を引き上げ、なるべくたくさんのひなが巣立つようにすることが緊急の課題であった。
それから5年後の1981年から、環境庁・東京都と協力して、植生が衰退し、裸地状態になっていた営巣地にハチジョウススキとイソギクの株を移植する植栽工事を行なって地面を安定させ、しっかりした巣の形成を促し、突風による砂嵐の影響を軽減した。その結果、移植直前に平均44%だった繁殖成功率は移植後に67%へと大幅に改善され、1984-85年繁殖期には50羽を超すひなが巣立つようになった。保護計画は成功を収めた。
しかし、1987年秋に、営巣地のある火山灰が堆積した斜面で、おそらく台風の大雨によって地滑り(表層崩壊)が起こり、土石流となって一気に海岸まで流れ下った。そして、翌年以降、頻繁に泥流が発生して営巣地に流れ込むようになり、移植したススキは枯死し、卵やひなは泥流に押し流されたり、埋まったりして事故死が増え、繁殖成功率は40%台に低下して、巣立ちひな数は50羽から66羽にとどまった。
この危機への対処として、1)砂防工事によって従来の営巣地を保全し、そこに再び草(黒穂病が発生したススキの代わりに、シバとチガヤを用いた)を移植して、好適な営巣地を造成し、繁殖成功率を引き上げて巣立つひなの数を増やし、2)そこから巣立った幼鳥が成長して鳥島にもどってきたとき、デコイと音声を用いて、地滑りや泥流が起こるおそれのない鳥島の別の斜面に誘引し、定着させ、新営巣地を形成する、という2つの課題を提案した。
第1の課題は、環境省と東京都と協力して1993年から取り組まれ、5年間で成功を収めた。従来営巣地での繁殖成功率は、1997-98年繁殖期に67%に回復し、そこから100羽以上のひなが巣立った。それ以後、春の嵐が襲った2004-05年繁殖期と、その影響から回復できなかった翌年の繁殖期を除けば、繁殖成功率は64%以上に維持され、最近5年間は平均して70%となった。従来営巣地からの巣立ちひな数は2006-07年繁殖期に200羽を超え、2011-12年繁殖期には403組のつがいが繁殖し、275羽のひなが巣立った。
第2の課題である「デコイ作戦」は、環境省や山階鳥類研究所と協力して、1992-93年繁殖期から始められた。鳥島の北西側斜面にデコイをならべ、そこから録音したアホウドリの音声を再生した。幸先よく、3年後の1995-96年繁殖期に1組のつがいが産卵してひなが巣立ったが、その後、繁殖つがい数はなかなか増えなかった。「作戦」の開始から12年後の2004−05年繁殖期に、ついに4組のつがいが産卵して、新営巣地が形成された。そして、以後、従来コロニーから若い個体が移入して、新営巣地で繁殖するつがい数は急速に増え、2011-12年繁殖期には102組が繁殖し、72羽のひなが巣立つまでになった。ここでの繁殖成功率は平均して73%で、従来営巣地よりも高い。
この他に、従来営巣地の上部にある断崖の上側に広がる平坦な場所で、2004-05年繁殖期から2組のつがいが自然に繁殖を開始し、小さな新営巣地が形成された。ここでは、2011-12年繁殖期に7組のつがいが繁殖し、6羽のひなが巣立った。
こうして、鳥島全体では2011-12年繁殖期に合計512組のつがいが繁殖し、353羽のひなが巣立った(図1)。そして、巣立った幼鳥を含めると鳥島集団の総個体数は推定で約3,000羽(推定個体数:成鳥1254羽、若鳥1394羽)になった。
アホウドリの繁殖開始年齢は約7歳で、若齢期の生残率は毎年だいたい95%と推 定されるので、この繁殖期に巣立った353羽のうち7歳まで生き残る253羽が2018-19年繁殖期に繁殖集団に加入する。そのうち実際に繁殖するのは 約8割と推定され、約100組が繁殖を開始すると予想される。繁殖年齢に達した成鳥の生残率は毎年96%と推定され、その繁殖期には約890組のつがいが 繁殖するはずである。もし、今後も繁殖成功率が70%程度に維持されれば、その年には約620羽のひなが巣立つことになる。そして、2019年5月に鳥島 集団の総個体数は5,000羽に到達すると予想される。
ぼくが鳥島のアホウドリの繁殖状況を初めて調査した1976-77年繁殖期に は、推測で約42組のつがいが繁殖し、15羽のひなが巣立ち、それを含めた総個体数はおよそ200羽であった。それから42年後に、鳥島集団の総個体数は 5,000羽を超え、鳥島のアホウドリは“安全圏”に向かって飛翔を始めるにちがいない。鳥島での「再発見」から25年後に、アホウドリをどうにかして再 生させたいと夢見たことが、これから7年後の2019年に実現する。絶滅危惧種の保護・再生には長い年月にわたるいくつもの挑戦が必要である。しかし、そ れをやり遂げたときには、かぎりない喜びを全身で感じることができるにちがいない。
付記)長谷川博は、2014年3月に定年退職します。したがって、このコーナーへの登場はこれが最後です。ありがとうございました。
ぼくが鳥島のアホウドリの繁殖状況を初めて調査した1976-77年繁殖期に は、推測で約42組のつがいが繁殖し、15羽のひなが巣立ち、それを含めた総個体数はおよそ200羽であった。それから42年後に、鳥島集団の総個体数は 5,000羽を超え、鳥島のアホウドリは“安全圏”に向かって飛翔を始めるにちがいない。鳥島での「再発見」から25年後に、アホウドリをどうにかして再 生させたいと夢見たことが、これから7年後の2019年に実現する。絶滅危惧種の保護・再生には長い年月にわたるいくつもの挑戦が必要である。しかし、そ れをやり遂げたときには、かぎりない喜びを全身で感じることができるにちがいない。
付記)長谷川博は、2014年3月に定年退職します。したがって、このコーナーへの登場はこれが最後です。ありがとうございました。
動物生態学研究室
長谷川博