見える世界と見えない世界 Part 2
われわれの眼の底に張り付いている神経組織である網膜には、桿体視細胞(桿体)と錐体視細胞(錐体)の2種類の光受容器があります。両生類、爬虫類、鳥類の錐体にはカロチノイドを含む球状の脂質があり、「油滴」と呼ばれています。カロチノイドの種類や濃度によって、図1のように無色から赤色までさまざまな色が見えます。

アカミミガメの網膜を色素上皮細胞層から剥離し、スライドグラスに拡げて視細胞側から観察した。
(http://www.nikonsmallworld.com./gallery/year/1985/3より転載)
Small World
カメラのニコンは光学顕微鏡の分野でも有名で、世界中の研究室で使われています。ニコン・アメリカが顕微鏡写真の国際コンテストを毎年行っているのを知ったのは、米国の知人の大学を訪れた際に彼の研究室に貼られていたカレンダーを見たからでした。もう四半世紀も前のことです。当時、毎日観察していたカメの網膜の写真を参加料5ドルを添えて、日本から送ってみました。研究室で見たカレンダーの12枚の写真はどれも息を飲む美しさでした。写真の説明文を読むと科学的な価値も審査の対象になるようでしたので、この色鮮やかな油滴が色覚の研究に重要な手掛かりを与えることを書き添えました(文献1、2)。
世界中から約2000枚の顕微鏡写真が応募したそうですが、運良く図1の私の写真は三等賞になり、当時とても高価だったニコンのカメラを頂きました。入賞作品は米国の主要都市や高校で展示されることを知り、視覚研究者のそれも一部にしか知られていない油滴を多くの人たちに知ってもらえることを、とてもうれしく思いました。これに触発されて視覚や色覚の研究に興味を持ってくれる高校生が出てくれれば望外の喜びです。
1985年版のカレンダーを入手するか米国の展示会に行くかしなければ目にすることが出来ないこの写真は、私の引き出しの奥深くに埋もれて、自分でも忘れかけていました。ところが、今ではニコン・アメリカのwebsiteには1977年からのすべての入賞作品が公開されて、誰でも自由に見ることが出来ます。このコンテストは米国の三大ネットワークや新聞にも紹介されています。油滴の世界
鳥類の錐体は爬虫類に比べると直径が半分位なので、油滴も小さく色も多種あります(図2)。この色の違いは溶け込んでいるカロチノイドの種類と濃度によるものです。鳥類の視力は脊椎動物の中で一番良いと言われていますが、これは視細胞の直径が小さいことと眼球内に突出した櫛状の血管組織であるペクテン(pecten oculi)と呼ばれる独特の構造物に関係していると考えられます。また、鳥類には色光感度の異なる4種類以上の錐体があるので、ヒトより色覚が優れていると主張する人達もいますが、今のところ直接的な証拠はありません。色の識別は原理的には3種類の錐体があれば足りるので、鳥類も他の脊椎動物と同じように錐体は赤緑青の3種類と考えられます(文献3)。

A:ハトの網膜。矢印は異なる位置にある黄色油滴を示す。B:視細胞の縦断像。矢印はAに示した黄色油滴、横棒は2μm、OLM(外限界膜)。A、Bとも色素上皮細胞層は取り除いてある。(大塚未発表データ)
電気生理学の世界

油滴の模式図(文献3図2より改変)
視細胞はこの電気生理学的な技術を使って調べます。視細胞の色に対する反応は、直径1μm以下のガラス微小電極を用いて記録します(詳細は文献3)。図4Aは、400から720 nmの単色光に対する視細胞の膜電位の変化を記録して、錐体の色光感度曲線を得たものです。単色光は外節にある視物質に吸収された後、複雑な光化学反応を経て最終的には1から10mV程度の微小な膜電位が発生します。この電位変化が脳に伝わって、われわれは見えたと感じ、色を識別するのです。視細胞の色光感度を解析すると、錐体の種類が分かります。図4Aは赤色(620 nm)に感度極大のある7個の赤錐体の色光感度曲線です。次にガラス微小電極から蛍光色素を細胞内に電気泳動的に注入した後で、網膜の縦断切片を作製して視細胞であることを確認します(図4B)。網膜の縦断切片を作る直前に網膜をスライドグラスに拡げて、UV光と白色光で2重露光すると蛍光で標識された錐体の中央に油滴の色が見えました(図5)。

A: アカミミガメ網膜の赤錐体の色光感度曲線。点線は赤色油滴の吸収曲線。B: 蛍光色素を注入した細胞の縦断像。横棒は5 μm。(文献1より転載)
カタツムリ郵便の世界
さて、「カタツムリ郵便の世界」のことです。カメの色感度曲線の論文(文献1)を投稿して半年経った或る日の真夜中のことです。日本の自宅にいきなり米国から国際電話が来ました。女性の声で「雑誌の編集者です。論文を採択したので添付してある写真を1ヶ月後の表紙にするから、元の写真(スライド)を急いで送ってくれ。」とのことでした。当時の国際電話はとても高価でしたから、用件のみ手短に伝えてきました。慌てて送った写真が図5です。錐体の色光感度と油滴の色の関係が、一枚の蛍光写真に示されていたので編集者の目を引いたのでしょう。

図5 カメ網膜の赤色油滴を有する赤錐体の蛍光写真。
(http://www.sciencemag.org/archive/1985.dtl#229より転載。 Sicence 1985年8月30日号)
インターネットの世界
生物学科では「パソコンの文盲(illiterate)」を無くすることを目指して、1学年の必修科目「情報リテラシー」を2002年に新設しました。私は「パソコンを文房具として使いこなす」を目指して、この科目を担当してきました。講義では、インターネットはグーテンベルグが1445年に金属活字を用いて大量印刷を可能にして以来の大発見だと話しています。写本によってのみ細々と伝承された聖書は、ごく一部の特権階級の聖職者しか読むことが出来ない貴重品でした。しかし、印刷技術の発明により多くの人達が直接聖書を読むことが出来るようになり、これがルネッサンスを促し、多くの科学の発見につながり、ついには天地を動転させる宗教改革の引き金になったと言われています。
大学や研究所に長年勤めていると専門分野の学術雑誌が棚一杯に、また他の研究者の論文やお互いに交換した論文など引き出しに一杯溜まります。これまで研究者しか知りえない専門的な知見がインターネットを介して、誰でも知ることが出来るようになりました。普通手に入らない論文なども、大学の図書館が出版社に膨大な使用料を払うので、膨大な印刷物を手元に置かなくても必要な時に直接パソコンの画面で読めば良くなりました。また教育面でも大きな変化が現れています。例えばマサチューセッツ工科大学の高名な教授の講義(ココ)を日本の自宅にいながら、自分の好きな時間に聴講できるようになりました。もちろん英語の講義ですが、いずれ日本の大学も公開講座が開かれるでしょうから、自宅で大学教育を受けることが出来るようになるでしょう。パソコンを駆使してインターネットの情報源を利用する人達とまったく疎遠な人達の落差のことをdigital divide(デジタル格差)と呼びます。これからは通信販売や旅行の手配などさらに便利になりますから、両者の落差はますます広がるでしょう。
私がインターネットの前身であるBitnetをはじめて使ってから四半世紀が経ちました(文献7)。Bitnetは英語の世界では7ビットしか使わないので、parity bitが自動的に切られて、8ビットを使う漢字が送れませんでした。日本文をかな文字だけで書き表すのは至難の技です。国外からのメールは漢字の部分を( )で括って文章をやり取りしたものです。今では米国に留学している卒業生から漢字のメールが来ますので隔世の感があります。インターネットが一般家庭に普及してから10年ほどですが、眼には見えないインターネットの世界は急激に発展しています。中世の宗教改革に相当するような天地が動顛する大変革が、近い将来には大学も含めた社会全体に起こることでしょう。
(神経生物学研究室 大塚輝彌)
参考文献
- T. Ohtsuka, Science 229:874-877 (1985)
(http://www.sciencemag.org/cgi/content/abstract/229/4716/874) - T. Ohtsuka & N. Kouyama, J. Comp. Neurol., 250: 141-156 (1986)
- 大塚輝彌 蛋白質核酸酵素 34: 605-613 (1989)
- T. Ohtsuka, J. Comp. Neurol., 237:145-154 (1985)
- 大塚輝彌・水野隆明 遺伝 53: 14-18 (1999)
- T. Mizuno & T. Ohtsuka, NeuroReport 30:1330-1333 (2009)
- 大塚輝彌・鎌田勉 比較生理生化学会 7: 25-32 (1990)