「生きた化石-ヌタウナギ」 【2007年7月号】
ぬるぬるの嫌われモノ? ヌタウナギ
ヌタウナギをご存じですか?皆さんの中には、テレビや水族館で見たことのある人もいるかもしれませんね。ヌタウナギのウナギの名は、この生き物が私たちの食卓に上るあの柔らかく細長いウナギの形をしていることに由来します。でもこのウナギ、あのおいしいウナギとは全く別の生き物です。日本人がよく食べるあのウナギは、硬い脊椎を持つ硬骨魚類で、鯉や鮭などと同じ仲間です。一方ヌタウナギは、硬骨魚類より下等な軟骨魚類(エイやサメ等の仲間)よりももっと下等な円口類に属します。円口類にはこのヌタウナギの仲間とヤツメウナギの仲間が含まれ、脊椎動物の最下等に位置付けられています。体の真ん中を通る骨は脊椎ではなく軟骨の脊索であるなどの特徴から、原索動物の頭索類ナメクジウオと脊椎動物の軟骨魚類との中間的な存在と考えられています。また他の脊椎動物と比べ顎(あご)がないため、円口類は無顎類と呼ばれて、他の脊椎動物(有顎類)と区別されています。
東大院付属三崎臨海実験所からいただいたヌタウナギ
(Eptatretus burgeri) 研究室にて藤川典子氏撮影
ヌタウナギのヌタの名は、この仲間がヌタ腺と呼ばれる体側の粘液腺から白いぬるぬるの繊維状のタンパク質を分泌することに由来します。ヌタウナギは危険を感じるとこのヌタを分泌し、ヌタは海水と反応して海水をゼリー状に変えてしまいます。これはこの仲間の防衛戦術と考えられていて、攻撃してきた相手を動けなくする、あるいは窒息させるなど言われています。ヌタウナギの仲間は現在世界に約60種知られていますが、主に南北両温帯海域の深海(水深200から300 m)に生息し、その生態や進化は未だ不明な点が多々あります。また、この仲間は目が皮下に埋没しているため、日本ではメクラウナギと総称されてきました。しかし、およそ3.5億年前の地層から見つかったこの仲間の起源種と考えられている化石には、しっかりとした眼があり、現存する種も皮下に痕跡器官を持ち光に反応します。日本では食する地方は限られていますが、韓国では好んで食べられ、またその皮は加工され防水性に優れた財布として米国などに輸出されています。英名ではhagfish(醜く意地悪な老婆;魔女の魚)と呼ばれ、かなり嫌われモノのようですが、現存する脊椎動物の中では最も原始的な生物群の一つであり「生きた化石」として紹介されるなど、脊椎動物の起源と進化を考える上では貴重かつ重要な生物といえます。
ヌタウナギの不思議
ヌタウナギの仲間、実はとっても不思議な現象を示す生き物なのです。多細胞からなる高等な動物は、体を構成するどの器官・組織から取り出した細胞でも、核に含まれる染色体数やDNA量は基本的に同じです。もし例外をあげるなら、多核化した細胞組織や、生殖細胞における核相(n、2n)の違いがあるのみです。しかし、幾つかの生物群では体をつくる体細胞(体細胞系列)と生殖巣をつくる生殖細胞(生殖細胞系列)の間で一つの細胞がもつ染色体数やDNA量が異なる、とても不思議な現象が知られています。これは、発生初期過程において二つの細胞系列が分化する段階に、始原体細胞になる割球から染色体または染色質の一部が失われることによります。この不思議な現象は、染色体放出、あるいは染色質削減と呼ばれています。1887年Boveriが線形動物のウマカイチュウにおいて初めてこの現象を観察しました。その後、カイチュウの仲間だけでなく節足動物橈脚(トウキャク)目のケンミジンコや、双翅目のタマバエなどでもこの現象は確認されています。しかし、この奇妙な現象の生物学的な役割については、これまでよく判ってはいませんでした。
東邦大学の河野晴一教授らは、ヌタウナギの染色体を詳細に観察し、それまで染色体観察はされても誰も気が付かなかったあることに気付きました。体細胞と生殖細胞の染色体数が明らかに違ったのです。1986年、河野教授は脊椎動物における染色体放出の初めての観察例としてこれを報告し、その後国内のみならず世界を駆け回り、日本産4種と海外産4種のヌタウナギの仲間でこの現象を確認しました。一方、同じ円口類のヤツメウナギの仲間からは、今のところ染色体放出は観察されていません。このことから、ヌタウナギの仲間における染色体放出の起源は、ヤツメウナギの起源種とヌタウナギの起源種が分岐した後、またヌタウナギの起源種が現存する多様な種に分化する前、すなわち4から5億年前に遡ると予想されます。
不思議な現象の役割
1987年著者は河野晴一教授の下で、卒業研究としてこのヌタウナギの染色体放出に取り組み、気が付けば20年の歳月を、後輩の学生・大学院生らと共に費やしてきました。この間に、ヌタウナギの仲間の生殖細胞にしか存在しない染色体は、主に高頻度の繰り返し配列がモザイクになっていることや、その中に遺伝子も存在することなどが判明しました。これらの結果に加えて他の染色体放出をする生物の研究結果などから、おぼろげながら染色体放出の持つ1つの生物学的な役割が見えてきます。それは、2つの細胞系列(生殖細胞と体細胞)の分化に伴い、それぞれで働く遺伝子セットを切り替えること、あるいは遺伝子産物の量を調節することです。では、ヌタウナギの仲間はこの染色体放出という不可逆的で大胆不敵な遺伝子制御機構を、いったいどのようにして獲得してきたのでしょうか?化石として見つかった3.5億年前のヌタウナギの起源種は、太古の海で既に染色体放出をしていたのでしょうか?それとも、数億年かけてこの機構をゆっくりと独自に進化させてきたのでしょうか?獲得を促進させる何らかの遺伝的要因があったのでしょうか?扉を開ければ、いつもまた向こうに新たな扉が待っています。ヌタウナギの不思議を紐解くには、まだまだ時間が掛かりそうです。あなたも著者と一緒にこの謎に挑んではみませんか。
高頻度反復配列の1例:ヌタウナギのEEEo2配列;背景はカナダ太平洋岸産の E. stoutii (河野晴一教授撮影)