額田晉
人物像
- 風貌 柔和で色白の顔立ちで、口髭を蓄えた小柄な好紳士。
- 趣味 宝塚歌劇ファンであり、東京公演にもよく足を運んでいたそうです。 お酒は嗜みませんでした。
- 性格 欲が無く、努力型で学問一筋で、企画や金策などの事務的・事業的な面は関心がありませんでした。新しいことが好きで、過去のことは一切忘れて、明日のことばかり考えるような人であったそうです。
足跡
学生時代
高校時代のボートレース
祝勝記念写真
祝勝記念写真
晉は12・3歳の頃から科学的な説明をするような子どもでした。また、高校時代には聖書も一通り読んでいたそうです。そして中学・高校の頃には「自分は地球上の全人類を救うためにこの世に生まれてきたのだ」という自己暗示にかかった、と自身で述べています。
幼少期の晉は虚弱体質でした。しかし東京へ進学後、兄である豊の影響を受けて中学・高校・大学時代、ボート部に入ったことと、散歩や水泳で身体を鍛えたことが、健康に大変役立ったそうです。高校のボート部では、校内対部レースで優勝をしたこともありました。大学時代には、2ヵ月程あった合宿中にも講義のノートを持参し、合い間によく読んでいたので、成績はとても良く、いつも特待生になっていました。
明治31・34年と相次いで祖父・父が亡くなったことで、晉の東京遊学を止めたらどうか、という意見が親族から出ました。しかし、豊が断固として進学を主張したことで、引き続き東京で学生生活を送ることになりました。
研究と研究所
晉は、心臓についての研究で、医学・理学の両学位を取りました。また、内科学・診断学・臨床薬理学など多方面にわたる著書を著したことで、広く日本の医学界に貢献しました。
そして研究に情熱を傾けていく中で、ある1つの問題をいろいろな分野から総合的にしかも長期的に研究する機関が必要だと感じました。そこで、千葉県に額田医学生物学研究所を開設します。
また、生活する上での心構えと生きる目標について探求するために、世界観研究会を創立しました。コスモスが好きだったことから、研究会のバッヂはコスモスのデザインで作られました。
そして研究に情熱を傾けていく中で、ある1つの問題をいろいろな分野から総合的にしかも長期的に研究する機関が必要だと感じました。そこで、千葉県に額田医学生物学研究所を開設します。
また、生活する上での心構えと生きる目標について探求するために、世界観研究会を創立しました。コスモスが好きだったことから、研究会のバッヂはコスモスのデザインで作られました。
額田医学生物学研究所
学校創立
学校で晉は、校長として学生に親しまれていました。
医学・生物学からドイツ語・倫理修身に至るまで、その講義ぶりは実に手慣れたものでした。また、科学的人生観の講義として、晉が生涯をかけた「自然・生命・人間」について話をすることもありました。
学生に対しては、ルールで縛ることなく自治を芽生えさせました。また、忙しい教務の傍ら、学生を数人ずつ招待して、お茶を飲みながらの懇談をしたり、「歩こう会」という会を作り、日曜日に学生と六郷や多摩川の堤防を散歩をしたりすることもあったそうです。他にも、同窓会に積極的に参加するなど、卒業後の学生とも関わりを持っていました。
戦後、校名を「帝国」から変更する際に「東邦」の案を出したのは、晉でした。これは、「帝国」よりさらに大きなスケールにしたいという思いからで、しばしば「本校を東洋一のものにする」と述べていたそうです。そのため、入学試験はとても厳重で、個人的な関係や義理人情など一切持ちこみませんでした。
また、創立期の学内向け広報誌「校報」の発行を実行したのも晉でした。戦前、社会主義運動の学生への浸透が世間的な問題になった時期に、晉は本学の学生たちにその波が及ばなようにする対策を考えていました。そのとき、とある教授の「学生相互のためにも、また学生と家庭の連絡のためにも、印刷によって毎月1回位の学園通信を図ってはどうか」という進言により「校報」の発行が始まりました。
医学・生物学からドイツ語・倫理修身に至るまで、その講義ぶりは実に手慣れたものでした。また、科学的人生観の講義として、晉が生涯をかけた「自然・生命・人間」について話をすることもありました。
学生に対しては、ルールで縛ることなく自治を芽生えさせました。また、忙しい教務の傍ら、学生を数人ずつ招待して、お茶を飲みながらの懇談をしたり、「歩こう会」という会を作り、日曜日に学生と六郷や多摩川の堤防を散歩をしたりすることもあったそうです。他にも、同窓会に積極的に参加するなど、卒業後の学生とも関わりを持っていました。
戦後、校名を「帝国」から変更する際に「東邦」の案を出したのは、晉でした。これは、「帝国」よりさらに大きなスケールにしたいという思いからで、しばしば「本校を東洋一のものにする」と述べていたそうです。そのため、入学試験はとても厳重で、個人的な関係や義理人情など一切持ちこみませんでした。
また、創立期の学内向け広報誌「校報」の発行を実行したのも晉でした。戦前、社会主義運動の学生への浸透が世間的な問題になった時期に、晉は本学の学生たちにその波が及ばなようにする対策を考えていました。そのとき、とある教授の「学生相互のためにも、また学生と家庭の連絡のためにも、印刷によって毎月1回位の学園通信を図ってはどうか」という進言により「校報」の発行が始まりました。
海外渡航
晉は生涯を通して、幾度か海外に渡りました。
最初の渡航はアメリカでした。ドイツへ留学する予定を、第一次世界大戦によりアメリカへ変更したもので、豊の援助による私費留学でした。約1年の期間でしたが、当時、世界的に大流行していたインフルエンザにかかり、重体になりました。このとき晉は初めて自分の死について考えたそうです。
関東大震災後には、アメリカのロックフェラー財団の申し出により、研究のために東京帝国大学の講師として中国の北京協和医学校へ行きました。
昭和に入ってからは、ドイツの医学研究所所長からの招待で、欧州学会の視察のために渡欧します。この際には、ドイツだけでなくイギリスやフランスなどその他多くの国に立ち寄りました。
最初の渡航はアメリカでした。ドイツへ留学する予定を、第一次世界大戦によりアメリカへ変更したもので、豊の援助による私費留学でした。約1年の期間でしたが、当時、世界的に大流行していたインフルエンザにかかり、重体になりました。このとき晉は初めて自分の死について考えたそうです。
関東大震災後には、アメリカのロックフェラー財団の申し出により、研究のために東京帝国大学の講師として中国の北京協和医学校へ行きました。
昭和に入ってからは、ドイツの医学研究所所長からの招待で、欧州学会の視察のために渡欧します。この際には、ドイツだけでなくイギリスやフランスなどその他多くの国に立ち寄りました。
その他
晉は森鷗外と親交があったことで、主治医として臨終を看取りました。鷗外が往診を受けた医者は晉だけだといわれています。
また、東京帝国大学教授と共に、有栖川宮威仁親王妃慰子殿下の診療に当ったこともありました。
晉が開設した額田内科病院は、外来の数は少ないものの、有名な知識人から中国の要人達まで、心臓の権威である晉を慕って来院しました。月・水・金の午前に診療を行い、午後は研究著述に専念していたそうです。
また、東京帝国大学教授と共に、有栖川宮威仁親王妃慰子殿下の診療に当ったこともありました。
晉が開設した額田内科病院は、外来の数は少ないものの、有名な知識人から中国の要人達まで、心臓の権威である晉を慕って来院しました。月・水・金の午前に診療を行い、午後は研究著述に専念していたそうです。
| 年表 | |
|---|---|
| 明治19年(1886) | 誕生 | 明治41年(1908) | 第一高等学校卒業 |
| 大正元年(1912) | 東京帝国大学医科大学卒業 |
| 大正7年(1918) | アメリカへ私費留学 |
| 大正8年(1919) | 博士(医学)取得 |
| 大正12年(1923) | 北京協和医学校から招請される |
| 大正14年(1925) | 帝国女子医学専門学校創立 |
| 大正15年(1926) | 博士(理学)取得 |
| 昭和2年(1927) | 額田内科病院開設 |
| 昭和11年(1936) | 欧州視察 |
| 昭和14年(1939) | 額田医学生物学研究所開設 |
| 昭和35年(1960) | 藍綬褒章受章 |
| 昭和36年(1961) | 世界観研究会創立 |
| 昭和39年(1964) | 逝去(享年77歳) |
参考文献
- 加藤恭亮『東邦大学三十年史』学校法人東邦大学 1955年
- 加藤恭亮『東邦大学四十年史』学校法人東邦大学 1965年
- 見学玄編『東邦大学50年史』東邦大学創立50周年記念事業委員会 1978年
- 世界観研究会編『額田 晉—自然・生命・人間—』西川書店 1972年
- 世界観研究会編『額田 晉(Ⅱ)—自然・生命・人間—』西川書店 1974年