学校対抗トーナメント戦
2024年11月30日今回の記事も前回に引き続き、スポーツの話題です。
冒頭に掲げた躍動感のある写真は、薬学科の1942年の卒業アルバムに掲載されているものです。キャプションは「薬歯連合競技大会」。
「薬歯連合競技大会」とは一体何かと言いますと、どうもこの頃、東京市内の薬学・歯学の女子専門学校が合同でスポーツ大会を開催することがあったようです。
毎年春と秋に卓球大会が行われていたところ、この年の春はちょうど帝国女子医学薬学専門学校が開催校に当たったそうで、これを好機と卓球以外の種目も併せて開催することにしたとのこと。
種目は卓球、テニス、バスケットボール、バレーボールの4つ。
本校を含めて6校の参加校、計約250名の参加者を得て、1942年の5月に晴れて開催日を迎えました。
開催校の地の利か、あるいはスポーツが得意な生徒が多かったのか、本校はなんとバレーボール以外の競技全てで優勝しています。
しかし、1942年の卒業アルバムになぜ同年5月のスポーツ大会の写真が掲載されているのか、不思議に思われる方もいるかもしれません。
実はこの頃、卒業時期が3月ではなくなっています。
薬学科は本来修業年限4年で、4月に入学し4年後の3月に卒業するのですが、戦争の影響による短縮年限のために1941年度は3ヶ月前倒してして12月に、さらに1942年度以降は一層短縮して6ヵ月早い9月に卒業を迎えることとなりました。
そのため、1941年度に卒業を迎える薬学科第12回生は1941年12月に、同様に1942年度に卒業する第13回生は1942年9月にそれぞれ学び舎を巣立っています。1942年の卒業アルバムというのは、実は同年9月に卒業した第13回生のものであった訳です。
少し話がややこしくなりましたが、1942年5月のイベントが同年の卒業アルバムに掲載されているのは、こうした事情によるものです。少し迂遠ではありますが、長閑な風景のようでいて戦争の影響が背景にある資料と言えるかもしれません。
実はこの競技大会を報じる学校雑誌の同じ巻号では、職員中の出征者から初の戦死者が出たことを伝える記事がすぐ後に続けて掲載されています。
大会の閉会式後のコンパでは次の秋期大会の開催校が決定されており、その年の10月には確かに他校を開催地として春と同じ4種目が競われたようです。
しかし、翌1943年度の春期大会が開催されたのかどうかについては、手掛かりとなる資料を見出す事ができません。
しだいに悪化する戦局の中でいつまでこの行事が継続できたのか、その後は不明となっています。
《史料・参考文献》
『高峯』第10巻第8号、1942年8月、p11~13。
『高峯』第10巻第9号、1942年9月、p16~17、p17~18。
『高峯』第10巻第10号、1942年10月、p8~9。
『高峯』第11巻第1号、1943年1月、p19~20。
見学玄編『東邦大学50年史』東邦大学創立50周年記念事業委員会、1978年3月、p341、p576、巻末年表p596。
「大学・高等学校・専門学校の修業年限短縮」文部省『学制百年史』帝国地方行政学会、1981年9月(ただしweb版:https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317703.htm(アクセス2024年11月30日)。)
投稿者:スタッフ
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