企画展—補足① 明治期における医学関係者のドイツ留学
2022年09月01日
現在、企画展「額田兄弟の外遊 天下ノ模範トモナリタク」を開催中です。
展示中の内容についてはすでに資料室のサイト上で公開していますが、額田兄弟が海外渡航した時期の時代背景などについては、こちらのブログで順次公開していきます。
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日本とドイツの間で公式外交が始まったのは、江戸にプロイセンのオイレンブルク伯爵率いる東方アジア遠征団が到着した1860年のことでした。
その後日本は1867年の大政奉還を経て、明治政府のもとで近代化政策が進められ、ドイツから医学や軍事学、法学などの移植を目的として留学生の派遣が始まりました。当初、医学教育はイギリス医学が採用されていましたが、ドイツ医学を支持する日本人医師らによって医学改革が行われ、1869年にドイツ医学の採用が正式に決定されました。
しかし1870年に始まった普仏戦争によって、ドイツ人教師の到着に遅れが生じたため、待ちかねた大学東校(東京大学医学部の前身)の学生ら2人がドイツ留学を決心しました。その後、大学東校は全国各地の医学校の教官・学生の中から「西洋留学生」の人選を行い、すでに幕末から藩費や私費によってドイツ留学中であった萩原三圭、青木周蔵、佐藤進を含む13人を官費留学生としてベルリンへ送り出しました。
この中にはドイツ到着後に法学や歴史学、物理学など他の分野に転向する者もおり、後に「日本薬学の父」と称される長井長義や、気象学の分野で高い評価を得た北尾次郎も名を連ねていました。
ドイツ留学から帰国した医学士たちは、帰国後に医科大学や地方の医学校などで教職に就き、ドイツ医学の移植を担っていきます。同時にドイツ医学への依存から脱却を図るため、「御雇い外国人」のドイツ人教師から日本人教師への移行が進められました。
また、博士号の学位取得に伴う社会的地位の上昇を目的としてドイツへ向かった私費留学生も増加し、明治後期には自由開業医制のもとで開業医となり、ドイツ医学の受容を補強する存在となったのです。
※画像は豊がドイツから家族に宛てたヴィルヘルム2世の葉書。第一次世界大戦の勃発後、1918年のドイツ革命によりヴィルヘルム2世は国外亡命し、1919年に共和制へ移行しました。
投稿者:スタッフ
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