青山胤通と額田兄弟

次回の企画展資料を探している際、少し変わった資料が偶然目にとまりました。その名も「青山胤通(あおやまたねみち)先生のおかたみ」、中身は万年筆のペン軸です。額田兄弟と青山胤通先生の関係について、これまでブログではほとんど取り上げたことが無かったかと思います。以下、少し長くなりますが、青山先生と兄弟それぞれのエピソードをご紹介します。

青山先生は、1882年に東京大学医学部卒業するとドイツへ留学し、その後帝国大学医科大学の初代内科学講座の教授に就任しました。また、日本で初となるがん専門の研究機関「癌研究會(現公益財団法人がん研究会)」の設立に携わった人物でもあります。

本学の創立者である額田豊・額田晉の兄弟は、ともに東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業しています。卒業後は二人とも青山胤通教授の内科学教室に入局し、それぞれ青山内科の助手となりました。

額田豊は、青山先生の生誕百年祭にあわせて作成された『思い出の青山胤通先生』の中で、青山先生と教育問題について書面でやり取りしていたことを明かしています。とりわけ、講義内容をノートに細かく筆記するだけの勉強方法に異を唱えた際には、青山先生から丁寧な返事があったといいます。(後に豊は、帝国女子医学専門学校の学生に対して、授業内容を細かくノートにとらせるのではなく、教科書に書きこむ方法を推奨しました。)

また、豊がドイツ留学から帰って間もない頃、青山先生から教職に就くよう「福岡に行け」と言われたそうですが、自身は性格上向いていないと考えて断ったところ大変叱られたといいます。

そして、弟の晉と青山先生の繋がりは、青山内科の教授と助手という関係だけではありませんでした。晉の大学在学中に勃発した「大学助手問題」において、当時東京帝国大学医科大学長を務めていた青山先生に対して晉が学生代表の立場で意見を述べる機会がありました。

この「大学助手問題」とは、大学卒業後10年以上経っているにもかかわらず、いつまでも助手として大学に残り続けている人物がいるために、若い世代が助手に就くことができないことが学生の間で問題として取り上げられていたものでした。教授会でこの窮状を訴える人物として白羽の矢が立ったのが、成績・人物ともに優秀な学生であった晉だったのです。その後、晉が青山内科の助手となった際には、自らの言動を貫いて1年で退いています。

額田兄弟と青山先生とのエピソードは、それぞれに二人の性格がよく表れており、スタッフも若かりし頃の兄弟を思い浮かべながら調べ物をしていました。今回の資料に「青山胤通先生のおかたみ」と書かれた紙が添えられていたことからも、思い出深い亡き恩師の形見として大切に保管されていたことが分かります。

投稿者:スタッフ

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