茨木のり子と帝国女子医学薬学専門学校
2021年07月13日7月に入ってから、日本経済新聞の土曜日の紙面で「この父ありて 詩人 茨木のり子」の連載がスタートしたのを見かけました。茨木のり子さんといえば、「自分の感受性くらい」や「わたしが一番きれいだったとき」などの詩で広く知られていますが、東邦大学薬学部の前身である帝国女子医学薬学専門学校の薬学科(当時は東京・大森)の出身であることをご存知の方は少ないかもしれません。
※本などには帝国女子医学薬学理学専門学校と書かれていますが、正式な校名は上記の通りです。
在学していた期間が戦争の時期と重なっているため、資料室には茨木のり子さんに関する資料がほとんどなく、当時の面影を知る一番の近道は評伝などを読むことかもしれません。
1943年に薬学科に入学したものの、理科系の勉強が肌に合わないことに気づき「化学ができないっていう自分自身への絶望と、時代の暗さへの絶望」を抱いていたといいます。次第に戦況は悪化し、茨木さんが3年生になった1945年には薬学科の学生たちも軍需工場や薬品工場などに動員され、勉強はほとんど手つかずの状況となりました。
大森・蒲田一帯は1945年4月に空襲を受けて焼野原となりましたが、大森の校舎はかろうじて焼失を免れて残っていたため、学校近くの会社が持っていた寄宿舎を寄宿生たちのために新たに借りて、1945年10月より学生たちが呼び戻されます。(上の画像はそのときの寄宿舎です。)
年表や評伝などには1946年9月に繰り上げ卒業をしたことが書かれています。同年9月に理学専門学校、そして11月に薬学科が習志野に移転したため、茨木さんは大森で卒業を迎えた最後の薬学科生の一人となります。
後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中央公論新社、2010年)には、こうした一連の戦争体験がその後の生き方を大きく変えるターニングポイントになったことが述べられています。
〈参考文献〉
後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中央公論新社、2010年)
谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波書店、2014年)
補足ですが、2020年度の企画展「戦時下の理系女子学生」では、本学に在学していた学生たちが戦時下どのような場所に動員されていたのか、また終戦後の復興の道のりなどについて、現段階で判明している範囲で紹介しました。まさに茨木さんが在学していた時期の学校の様子が分かるかと思います。詳細についてはぜひ下記リンクよりご覧ください。
投稿者:スタッフ
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