森鴎外の主治医・額田晉
2021年07月09日
「君、愈々病気らしいよ。何しろ四十何年も診察を受けたことはなかった。今度、君に診て貰ふのが初めてだ。これからは君だけで誰にも見せないから、そのつもりで診察して呉れ給へ」
今日は2021年7月9日、森鴎外の百回忌です。鴎外の主治医であった額田晉とのエピソードについて触れてみようと思います。
森鴎外が本学創立者のひとり額田晉に上のように伝えたのは、1921年6月20日のことでした。すでにこの頃体調が思わしくなかった鴎外は、親友の賀古鶴所に医師の診察を勧められていましたが、頑なに断っていたといいます。それでも家族の手前、診察を受けなければということで自ら指名したのが額田晉でした。
なぜ額田晉が選ばれたのか、おそらく考え得る理由は、額田晉の妻が賀古鶴所の姪・賀古かつらであったこと、また肺結核の治療や研究に携わる医師であったことなどが挙げられます。2人が初めて会ったのは1912年7月。牛込の賀古鶴所の新宅で常磐会が開かれた際に「賀古の壻」として鴎外には認識されていました。その後も晉の三男の名付け親になるなど、個人的な交流があったことが判っています。
鴎外が亡くなった当初、死因は腎委縮とされていました。しかし晉は、後に長男・於菟に主因が肺結核であったことを明かしています。もちろん鴎外自身も肺結核であることに気づいていましたが、当時はまだ特効薬もなく、世間からの偏見が厳しい時代であったため、子どもたちのことを考えて肺結核であることを公表しないように伝えていました。そのため、晉は診断書に腎委縮のみを記載しました。
上の画像は鴎外の長男・於菟が三十三回忌の際に額田夫妻に宛てた書状で、観潮楼のあった団子坂での建碑と除幕式に招待したものです。じつは於菟と晉は獨逸学協会時代の同窓生であり、帝国女子医学専門学校でも同僚として長い時間を一緒に過ごしていました。しかし、晉が鴎外の本当の死因を於菟に伝えたのは終戦後の昭和30年代頃になってからのことでした。
額田晉は著名な人物を診察する機会が多々ありましたが、やはり鴎外を診た経験は深く記憶に刻みこまれており、この時のことを振り返ったエッセイを何度か書いています。とりわけ、死を目前にした悠然たる態度に感銘を受け、「大悟徹底、眠るが如き偉大な死」「先生のゆうゆうとして大自然にかえられた尊いおすがた、人間として最高の厳粛な死の教訓を与えられた」と表現しており、その後の晉の人生観にも大きな影響を与えました。
投稿者:スタッフ
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