額田兄弟と感染症
2020年09月30日ここ最近、感染症といえば新型コロナウイルスが真っ先に思い浮かびます。しかし、今から100年ほど前の時代には特効薬のない感染症が多く存在していました。
そのなかでも肺結核は、本学創立者の額田豊・晉兄弟が立ち向かった病気のひとつです。
兄の豊は、当時唯一の治療法であった大気安静栄養療法を広めるため、1920年に神奈川県・鎌倉に「鎌倉額田保養院」を開設しました。次いで1938年には、小児結核や虚弱体質の子どものための全寮制小学校「鎌倉学荘」を併設しました。
弟の晉は、肺結核の新たな治療法について研究を続けていました。1918年にアメリカへ留学した頃から、肺結核の治療法についての研究を志したといいます。帰国後、結核菌に対して身体の免疫力を高める物質を探求し、「特殊転調療法」と名付けて研究を続けました。1938年には千葉県・稲毛に「額田医学生物学研究所」を開設して研究に打ち込み、さらにその敷地内には結核患者のための付属病院を併設しました。
ちなみに、家系図をたどると、額田家代々の医師がその時代ごとの感染症に、最新の医学知識を用いて医術・医療を行ってきたことがわかります。
例えば、1886年に全国でコレラが流行した際、岡山県に開設した避病院の院長を務めたのは額田兄弟の父である額田篤太でした。さらに後年には、地元である岡山県邑久郡の衛生委員も務めるなど、公的な分野でも尽力しました。
もう一つ上の代の額田一中(額田兄弟の祖父)は、備前周辺においてかなり早い時期から天然痘の種痘を実施していたといわれています。(一中は、難波抱節のもとで医術を学んだ人物です。)
篤太と一中については、額田豊が後年に記した『額田家家記』という冊子に人物像や業績が書かれています。額田兄弟が肺結核の治療に携わるにあたって、それぞれに動機があったのはもちろんですが、祖父と父に続いて感染症に関心を向けたのは決して偶然ではなく、兄弟の家庭環境にその土壌があったことが分かります。
※上の画像は額田豊が鎌倉に開設した「額田保養院」、下の画像は額田兄弟の父・篤太宛ての「避病院長心得」
投稿者:スタッフ
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