額田晉の自宅—西村伊作とのつながり
2020年09月24日1934年、本学創立者の一人である額田晉は、大森の学校からほど近い場所に自宅を構えました。この自宅を設計したのは、大正から昭和にかけて絵画や陶芸、建築など様々な分野で活躍した西村伊作です。彼は自由主義的な教育を行う「文化学院」を創立した人物としても知られています。(文化学院は2018年に閉校。)
『額田晉 自然・生命・人間』(世界観研究会編、1972年)に、数行ではありますが、晉が自宅を建てた際のエピソードが載っています。
「家庭科学研究所長*として模範的の家庭建築を作らうと、文化学院長の西村伊作氏に設計を依頼して建てたものである。西村氏とは同氏が三十八年に死去するまで終生親交があった。」(原文ママ、*当時の家庭科学研究所長は高良とみ)
家庭科学研究所とは、帝国女子医学薬学専門学校の構内に1933年に開設された研究所で、理学の知識を女性に普及し、「家庭の改善」に資することを目的としていました。またこの研究所には高等部が併設されていました。(前年に帝国女子高等理学校として開校し、まもなく家庭科学研究所高等部へ改称。)家庭科学研究所が開設された背景には、大正期から続く生活改善運動が影響を与えたものと考えられます。1935年には帝国女子高等学園へと名称を変更し、学園長を晉が務めることになりましたが、経営難のためか開設からほどなくして閉校となりました。その後1941年に開設する帝国女子理学専門学校(現・理学部)のルーツともいうべき学校でした。
残念ながら大森の額田邸は現存していませんが、所蔵している写真を見る限り、当時としては珍しい洋風の外観であることが見て取れます。晉は自身の生活の場で合理的な生活を実践するため、新たなライフスタイルを掲げていた西村伊作に依頼することを思いついたのでしょう。
<補足>
晉が西村伊作と出会ったのは、東京帝国大学時代に参加していた結社「一匡社」を通してのことだと考えられます。1923年頃、一匡社が軽井沢に「一匡邑(いっきょうむら)」という避暑村をつくる際、建物の設計を西村伊作に依頼していました。
投稿者:スタッフ
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