4月15日の空襲—焼野原の本館

「4月15日の昼間は暖かかった。夜の点呼を終えて入浴のあとみんな部屋に戻り、就寝しようとする時、突然電灯が消えた。停電かなと思う耳に不気味な警戒警報のサイレンが響いた。……」

ちょうど今から75年前の1945年4月15日、大森や蒲田を含む京浜地区一帯は空襲によって甚大な被害を受けました。戦前から大森にキャンパスや病院を構えていた本学も、この時ほとんどの施設が焼失しています。寄宿舎や薬学科の建物は全焼し、病院にも火が入りました。幸いにも、学生や教職員、患者さんを含めて死者は出なかったと伝えられています。

冒頭の文章は『東邦大学50年史』に収録されている文章の一部で、当時看護婦長を務めていた職員が空襲当日を振り返って書き残したものです。文集や各所属の年史などに、当時の学生や教職員らがこの空襲を振り返った文章がいくつか残されています。

さて、この空襲による被害が最も少なく、現在も大森キャンパスに残されている建物が「本館」(現在の医学部本館)であることは、これまでの展示やブログで何度もお伝えしてきました。

なぜ本館だけ被害が少なかったのか、それには大きく二つの理由がありました。まず、本館の中に残されていた(逃げ遅れた)職員と学生あわせて7人が、隣の小学校から本館に延焼した箇所の消火活動にあたっていたこと。そして二つ目に、この建物が鉄筋コンクリート造であったことが挙げられます。木造に比べて鉄筋コンクリート造が耐火に優れていることは延焼のスピードを抑えたと考えられます。(設計した増田清氏については2019年12月19日のブログをご覧ください。)

冒頭で紹介した文章の最後の部分には、焼野原に残された本館の姿が書き記されています。

「……午前2時。夜明けが待ちどおしい。4時頃紅の空の間から青い色がさしてきた。夜が明けたのだった。助かったと手を取り合って喜ぶ。あたりは一望の焼野原、学校(本館)だけが浮城のように残っていた。焚火をして濡れた服を乾かす。とにかく生きて今日が迎えられた。煙にただれた目に16日の大きな真赤な太陽がまぶしいばかり昇り始めた。」

一見するとただ古いだけに見える本館ですが、大森や蒲田周辺では数少ない戦争を経験した建物として、これからも大切に使って後世に引き継いでいきたいです。

投稿者:スタッフ

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