千曲川の月見草

「夏のある夕べ。私たちは、散歩に出て、千曲川の河原に行きました。月見草が咲いていて、月の光が淡く美しくて、私たちは女学校の時に習った歌を次々とうたい、そのうちにみんなで「荒城の月」のダンスを踊り出していました。夢の様な思い出です。」

1945年に長野県佐久郡に疎開していた当時の医学科5年生が、卒業から40年を記念して作成した文集『ここに道あり』から引いた文章です。

この部分だけ見ると、疎開先では平和な時間が流れていたように思えますが、その裏には計り知れない苦労がありました。

疎開先とはいえ、食糧など生活に必要なものはみな不足していた時期です。食べ物の少なさに悩まされ、道端で食べられる草を探したという学生もいれば、村の住民に自らの持ち物と食糧を交換してもらったという学生も少なくありませんでした。

また、当時の疎開先は養蚕が盛んで桑畑が広がっている場所でしたが、食糧を補うために桑の木を切って芋を植えることになり、この作業にかり出された学生もいました。この時のことを次のように回想しています。

「数十平方米に整然と並んでいる桑の木を、切れというのである。毎日野菜入りの雑炊を食べて半ば栄養失調にあった私には、気の遠くなるような作業であった。炎天下に桑の木に鋸を入れていた私は、眼の前が真っ暗になり、頭がくらくらしてその場にしゃがみ込んでしまったこともあった。」

この他にも文集には当時の苦労について多くのことが書かれていますが、何人もの卒業生が共通して書いていたのは川辺に咲く月見草の思い出でした。数多くの苦労を重ねていた当時の学生たちにとって、千曲川沿いでの散歩は心休まるひと時だったのかもしれません。

(写真は千曲川での学生たちの様子です。)

投稿者:スタッフ

記事一覧に戻る

Top