松原湖からの帰京
2019年08月15日
資料室には、終戦の年に医学科へ入学した学年が作った文集があります。当時のことを文章として残しておきたいという思いから、卒業して47年後に卒業生たちによってまとめられたものです。
『青春のかたみに—疎開した女子医学生の記録』と題する文集には、卒業生が当時経験した多くの困難や、学生生活のみずみずしい思い出、卒業後のそれぞれの生活について綴られています。
1945年4月の大森蒲田一帯の空襲で本学の施設の大部分が焼失したため、休校を余儀なくされました。この時、薬学科と理専の学生は女子挺身隊としての任務が課されていたため、東京を離れることはできませんでした。しかし、医学科は学業を続けるため、集団疎開することが決まりました。
1945年に入学した学年は現在の長野県南佐久郡の松原湖の近くに疎開し、また他の学年は福島の会津へ疎開するなど、学年によって向かった場所は異なりました。
入学式も大森の空襲と重なり延期されたため、松原湖の旅館松原館で8月13日に行なわれました。終戦後、まずは松原湖に疎開していた1年生が同年の11月に東京へ戻ることになりました。東京の惨状を目の当たりにした時のことについて、文集の中で卒業生の一人は次のように振り返っています。
「東京は殆どが、やけのはら、その中にぽつんと建っている母校の本館を目にしたときは感慨無量で、またこれからは苦しくても頑張らなくてはならないと気の引きしまる思いでした。」(原文ママ)
このあと数年の間に、校名が「帝国」から「東邦」へ変わり、専門学校から大学へ昇格し、また男女共学への道を歩むことになります。
学生にとっても学校にとっても、終戦はひとつの終わりであり、また始まりでもあったのです。
(画像は松原湖で学生たちが宿舎として使用していた建物です。)
投稿者:スタッフ
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