引揚援護と学生同盟

7月に入ってから、平日の東京新聞夕刊で歌人・明石海人の家族をテーマにした連載「海人の娘」が開始されています。そして、ご家族のお一人が本学の卒業生であったということで、ご家族の方から許可をいただいて在学当時の様子が分かる資料を提供しました。

さて今回は、この連載にも登場した「在外同胞救出学生同盟」に関する資料をご紹介します。

この画像の資料は引揚援護活動に協力した本学の学生への感謝状で、東京都知事から贈られたものです。ちなみに、学校の名称は1947年11月に「帝国女子医学薬学専門学校」から「東邦女子医学薬学専門学校」に変わっています。

『引揚検疫史 第一部』(引揚援護院検疫局、1947年)によれば、海外から引き揚げてきた人々は各港での検疫が終了すると、故郷へ帰りたい一心ですぐに列車に乗り込む人が多くいたといいます。そのため、列車内で体調を崩す人も相当数いたようです。

このような事態に対応すべく、「在外同胞救出学生同盟」(全国各地の医学科や薬学科系の大学・専門学校の学生有志によって構成)が主要駅で待機したり、また列車に添乗するなどして応急処置などを行っていました。

当時の卒業生による文集には、本学の学生も静岡から品川・東京まで添乗し、それぞれの駅で診療や慰問を行った際の回想が以下のようにつづられています。

「とにかく深夜十一時近くに品川駅から下り列車に乗り込んで静岡まで行き、そこから暁方上り引揚軍人列車に乗り込んで医療サービスを始めるわけである。」(原文ママ)

こうした活動は授業の合間に行っていたようで、授業で列車に添乗できない場合は、学校から線路沿いまで出て手を振って列車を出迎えたといいます。また、少なくとも5、6回は列車に添乗していたという回想も残っています。

戦後の混乱した時期の活動であったため、関連する資料はほとんど資料室には残っていませんが、今回の東京新聞の連載を通して、戦後の混乱期の学生たちの様子についても知っていただけたらと思っています。

投稿者:スタッフ

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