寄宿舎の自治制度

『東邦大学五十年史』の後ろにある年表には、創立から50周年を迎えた1975年頃までの出来事が細かく記載されています。学校の設置認可や校舎の竣工などが並んでいる中、ひときわ異彩を放っているのが1926年5月22日の「寄宿舎に自治制度を布く」という一文です。自治を重んじる校風の帝国女子医学専門学校では、寄宿舎においても学生たちの意志が尊重されていました。

学校には全国各地から学生が集まっていたため、自宅からの通学が困難な学生は原則として寄宿舎から通うことになっていました。この寄宿舎は、1945年4月の空襲で焼失してしまいましたが、現在の位置でいうと病院の東側の鶴渡公園付近にあたります。

寄宿舎では各部屋から「総代」を一人選出し、隔週で開かれる「総代会」に出席することとなっていました。また、この他に「庶務委員」、「会計委員」、「食事委員」、「衛生委員」を選出し、これもまた隔週で委員会が開かれていたようです。

基本的には「委員会」の下に「総代会」が置かれ、「委員会」で持ちあがった議題などを「総代会」に伝え、そこから各部屋のメンバーに報告するという系統ができていました。

本学創立者の額田兄弟の出身校、第一高等学校の寄宿寮でもこうした「自治制度」が明治の時期から用いられていました。実際、額田豊は第34期に、額田晉は第54期に寄宿寮の委員を務めており、二人とも積極的に自治に参加していた様子が分かります。二人の一高時代の経験は、帝国女子医専の寄宿舎生活に少なからず影響を与えたと考えられます。

さて、現在展示ケース内では、戦前の寄宿舎生活が分かる写真をパネルにまとめて展示しています。またその隣には、同時代の梅屋敷商店街の様子が分かる写真パネルも置いています。ぜひ、あわせてお楽しみください。

投稿者:スタッフ

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