「東邦医大通り」はいつから……

外では蝉が鳴きはじめました。本格的に夏が到来したようです。
朝から陽射しが強く、すこし外を歩くだけで汗が噴き出してきます。
こまめな水分・塩分補給が大切ですよね。

さて、今日は地域の歴史と絡めたテーマです。
蒲田駅や大森駅から大森キャンパスへ来るとき、おそらく誰もが
「東邦医大通り」を通っているはずです。

この「東邦医大通り」という名前、東邦大学の歴史をご存知の方は
あれ?とお気づきかもしれません。

「東邦大学」という大学名になったのは戦後に入ってからだから、
それ以前はまさか「帝国女子医専通り」とかだったのかな?
いやそれは聞いたことがないぞ……。
(皆さまの心の声はこんな感じでしょうか)

ということで調べてみました!

「東邦医大通り」と呼ばれる以前は「オニタビ通り」という通称だったそうです。
現在の大森第八中学校のグラウンドにあたる場所に、「鬼足袋」というブランドの
足袋工場が1920年(大正9)に設置されていたことが由来となっています。
鬼足袋はすでに明治期から生産されていましたが、
日露戦争後の好景気や都市人口の増加によって
増産のための工場が大森に置かれました。
しかし、1945年(昭和20)空襲によって大森一帯は瓦礫の山と化し、
鬼足袋の工場もこの地から撤退していきます。

その後、1948年(昭和23)に大森第八中学校が校地を拡げるために
工場跡地を買収し、現在に至ります。
おそらく、地域の方々から「東邦医大通り」と呼ばれるようになったのは
この時期からだと考えられます。

毎日なにげなくこの通りを歩いていましたが
地域と大学の歴史を結びつけると、また新たな一面が見えてきそうです。
調査あるのみですね!

※ちなみに「東邦医大通り」の正式名称は「補助27号線」というそうです。

参考文献
廣瀬達志「鬼足袋通りを行く」『大田区立郷土博物館紀要』20, p.1-29, 大田区立郷土博物館, 2013年.

投稿者:スタッフ

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