六郷用水と帝国女子医学専門学校
2018年06月19日蒲田駅の東口を出て大森駅行のバスに乗るときに
ふと隣の乗り場を見ると、六郷神社行のバスがやってきます。
さて、少し強引ですが今日のテーマはこの「六郷」つながりで、
江戸時代に開削された「六郷用水」についてです。
(実は少しだけ、帝国女子医学専門学校とも関係があります。)
用水路ができる以前のこの地域は、小規模の自然河川と
湧水くらいしかなく、また当時は多摩川の水を簡便に
汲み上げる方法もなかったため、水田耕作を行うには
水量が足りませんでした。
そこで、慶長2年(1597年)に徳川家康は
多摩川の両岸で稲作を行えるよう、用水路の開削を命じました。
その際、多摩川左岸(現在の大田区側)に造られたのが六郷用水です。
用水路が開削されたことによって平地の水不足が解消され、
それ以降この地域の生産や生活を支える水脈となりました。
(同時期に他にも用水が造られたのですが長くなるので割愛します!)
大正時代以降は市街地化に伴って、それまで網目状に
張り巡らされていた六郷用水の流路が改修されていきます。
帝国女子医学専門学校は大正14年(1925年)に設立されますが、
その際も土地整理によって付近の六郷用水支流が直線化されました。
上の図は昭和8年(1933年)の「大森キャンパス俯瞰図」ですが、
よく見ると上下に青色で水路が通っているのが見えます。
経済成長のなか都市開発が進み、六郷用水は元の姿を消してしまいましたが
資料からはまちの発展とともに変化していく水路の姿が見受けられます。
現在、この資料は展示しておりませんが
資料室にお越しの際は「この近くにも水路があったのか~」と
想像しながら楽しんでいただけますと幸いです。
投稿者:スタッフ
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