帝国女子医学薬学専門学校生の就職—戦前の同窓会誌『高峯』より—

5月も末、暑い日が続いていましたが、
今日は風が通って幾分か過ごしやすいですね。
最近、電車に乗っていると、必ずと言っていいほど
リクルートスーツ姿の学生さんを見かけます。
その姿を見て、ふと疑問に思いました。

東邦大学の前身である「帝国女子医学薬学専門学校」の学生は、
一体どのように職を探していたのでしょうか?

実は資料室の展示ケースの中に、そのヒントがあります。
顕微鏡の製作所を見学した際の記事の下の部分にご注目ください。
「職業案内」の欄があるのです。
この資料は1935年8月に、学校の同窓会誌『高峯』に掲載されたものでした。

「職業案内」の中には、小児科や内科、眼科など
さまざまな科の医師や研究所の助手などが募集されています。
また、薬学科の学生に向けた薬局の求人も見られます。

とはいえ、東京近辺の求人はごく一握りでした。
別の資料を探してみたところ、当時の就職の様子を
伺い知ることができる記事を見つけました。
1936年7月の『高峯』に掲載されたその記事は
「職業委員より」と題されており、以下の文章が書かれています。

「東京市内の午後の勤務とか宿直のご希望の方が
非常に多いのですが、そう云ふ就職口が非常に少うございますので、
お氣毒に存じて居ります。(原文ママ)」

この記事は、現在でいう大学の就職窓口の担当者によって書かれたものです。
学校には全国各地から学生が集まっていましたが、
やはり首都圏出身の学生が多く集まっていました。
そのため、とりわけ都心での勤務を望む学生が多くいました。

ただでさえ女性の社会進出が始まったばかりの時期です。
求人の数が少ないだけでなく、周囲からの反対も当然あったことでしょう。
当時の女性が医師や薬剤師として就職するのは、
現代を生きるわたし達が想像する以上に困難なことだったと考えられます。

展示の中では直接取り上げていないテーマでも
資料の細かい部分に注目してみると、また別の視点で楽しむことができます。
ぜひ一度、資料室にお越しください!


参考資料
『高峯』17号, 帝国女子医学薬学専門学校, 1935年, p.5.
『高峯』23号, 帝国女子医学薬学専門学校, 1936年, p.8.

投稿者:スタッフ

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