豊先生
2014年08月01日
今週の火曜日、7月29日は、豊先生の命日でした。
1972年大橋病院にて、老衰のため94歳で逝去され、
8月8日に大学葬が執り行われました。
同年11月に発行された「東邦大学広報」は、
故額田豊先生追悼特集号と題され、
大学葬の様子や豊先生の人柄についてなどが記載されています。
弔辞を述べた中には、
豊先生が創設に関わった日本大学の医学部長や、
第1回卒業生である龍知恵子さんなどがいました。
また、同年9月に行われた「故額田豊先生を偲ぶ会」で回想された、
豊先生に関するエピソードがいろいろ載っています。
【家族や教授】
*学生時代に入っていた寄宿舎では、非常な腕白坊主だったので、
みんなから「豊(とよ)坊主」とよばれていた。
*自らを遇することが極めて薄く、自著『安価生活法』のような簡易生活をしていた。
*新しくて優れたものに逸早く目をつけて採用する。
*先見の明があり、またそれを実施する能力も持っていた。
*人に対して寛容であり、地位や年齢に係わりなく誰とでも気軽に接する。
【卒業生】
*服装等をキチンとすることが好きで、女の先生よりも細かいところに気がついた。
*校歌を作ったときには、自宅にあるピアノを豊先生のお嬢さんに弾いてもらって練習をした。
*散歩していて患者さんの顔を見ると、お見舞いの言葉をかけたり、
庭師がいたのに、石をどけるなどの手入れをしていた。
豊先生と関わる立場によって、印象はいろいろだとは思いますが、
「先見の明を持っていた」というのは、誰もが持っている印象であったようで、
当時、学長代行であった浅田先生は、
「学園の時代の流れの中で時に風浪がおこり、右に左にゆれ動くこともありましたが、
何人の努力といえども未だ額田豊先生の建学の布石の掌中を飛び廻っていたに
過ぎなかった事をしみじみ感ぜざるを得ません」
と弔辞で述べています。
来年、東邦大学は90周年を迎えます。
現在では、大学も病院も立派に育ちました。
遠い存在に感じる創立者でも、周辺の方からのエピソードを知ると、
身近に感じることができるので、たまには過去を振り返るのも良いものです。
投稿者:スタッフ
カテゴリー:資料室近状

