疎開学童への医療奉仕

戦時中、薬学科と理専の学生は学徒動員に徴用されましたが、
医学科の学生は、疎開学童への医療奉仕の仕事があてがわれました。

これは、無医村の疎開児童に付き添って行き、
診療を担当する医療班の仕事でした。

当時、学生の引率をした須田教授は
帝国女子医専は、千葉、埼玉、静岡、福島、宮城、山形方面へ
冬の間2人1組になって付添い、或る期間で次の組と交代する。
たしか4年生が行った。そして配属した疎開先を私が巡視して歩く、
こういうことの繰返しだった。


また、疎開児童医療班の指導者として同じく各地を巡視した石津教授は、
疎開児童は虱がわく、下痢をする、風邪をひく、そんなケースばかりだった。
いま覚えているのは富士宮市の大石寺、静岡県の御前崎の相良・地頭方のような
不便なところにも行く。そこへ学生を2、3人おいて、虱はこうして駆除する、
怪我や傷にはこういう手当をするとか指導して、又、次へ別な学生をつれていく。
信玄の隠し湯といわれる下部温泉や浜松の奥の半僧房という大きな禅寺、
こういうところが疎開学童の受入場所であった。
男の医者はほとんど戦争に引張り出されて、手が足りない。
そこで医者の卵をわれわれが引連れて配属するという診療方法を
国が考え出してやらせられたわけである。ずいぶん国に奉仕したことになりますよ。


と回想しています。

また、実際に奉仕活動を行った学生は、
2人ずつ1ヵ月位の交替で、無医村疎開学童の診療に千葉の山の中に行った。
凍傷、感冒、急性胃腸炎、急性中耳炎が疾病だった。
担任の先生が熱を出して寝込まれた時は、授業をした事もあった。


越谷のお寺に神田の疎開学童の診療に行きました。
2週間余り子供達と寝食を共にして、本当にのんびりした時を過しました。
幸い熱を出す子も怪我する子もなく、救急箱と聴診器だけで
今思えば冷や汗ものです。大事故がなかっただけに幸せだったと思います。
1日の仕事と言えば、子供達の虱のついたシャツを大釜でクタクタ煮たり、
ひだまりで耳垢をとってやったり、ハタケやタムシに薬をつけたり、
爪を切ってやったり、穏やかな毎日でした。


などと当時の思い出を語っています。


医専という学校で、医療を学び医者になる事を目指した学生たちが、
先生のいない場所で自分達だけで診療に当たる、
初めての体験だったのではないでしょうか。
どの学生も責任とやりがいを感じながらこの奉仕活動に携わっていたようです。

投稿者:スタッフ

記事一覧に戻る

Top