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額田兄弟の外遊 天下ノ模範トモナリタク

【展示会場1】
場所:東邦大学大森キャンパス 額田記念東邦大学資料室
期間:2022年8月22日(月)~10月14日(金)

【展示会場2】
場所:東邦大学習志野キャンパス 習志野メディアセンター3階
期間:2022年10月20日(木)~12月20日(火)

≪概要≫
 東邦大学創立者である額田豊・晉兄弟は、明治から昭和の時代にかけて医師、研究者、教育者として、最新の知見を得るために海外を訪れました。国際情勢揺れ動く時代のはざまに、ふたりは異国の地で一体どのようなことを学び得てきたのでしょうか。帝国女子医学専門学校や額田医学生物学研究所の設立に繋がるそれぞれの海外経験について、当時の資料や時代背景とともに紐解きます。なお、額田兄弟の海外滞在中の詳細を取り上げた展示は今回が初となります。
 兄の豊はドイツの大学で医学の知識を深め、さらに女子教育の必要性に目覚めました。また、弟の晉はアメリカや中国、ヨーロッパ各地で多くの研究者と関係を築き、戦中戦後にかけて幅広く交流を続けました。
 展示タイトルにある「天下ノ模範トモナリタク」というフレーズは、豊がドイツ留学中に晉に宛てた書簡に書かれていたものです。将来、二人でなんらかの事業を成し遂げたいという豊の思いは、1925年の帝国女子医学専門学校の創立という形で成就しました。
 明治期以降、近代化にともなって海外と日本を結ぶ航路が発達してグローバルな移動に対するハードルが下がり、これによって人・モノ・文化などの交流・交換が盛んに行われました。しかし同時に、戦争や感染症によって行動が左右された時代でもありました。本展示では、「天下ノ模範」というナショナルな枠組みにおける目標を掲げながら、さらにグローバルな視点で物事を捉えていた額田兄弟の姿を描写していきます。

1. 豊 外遊までの日々

 1878年、額田豊は岡山で曽祖父の代から続く医家に長男として生まれました。父・篤太は豊が誕生した年に単身上京し、東京大学医学部の通学生(1880年別課へ改称)となり、1884年に岡山へ戻って開業した人物でした。1886年にコレラが流行した際には、岡山県の伝染病専門病院「避病院」で篤太が院長を務めていました。

 豊も医師となるべく、小学校卒業後に上京して1年間ドイツ語学校に通った後、獨逸学協会学校(現・獨協学園)、旧制第一高等学校へと進学し、1901年に東京帝国大学医科大学へ入学しました。しかし、大学入学の同年10月に父・篤太が亡くなったため、母・宇多や4人の弟妹を気にかけて休暇のたびに帰郷し、また日々家族と手紙で連絡を取り合う生活を続け、「親がわりの兄」として一家を支えていました。豊は後年、学生時代について「私は怠け者で「ボート」などに凝ったり、入学後まもなく父に死なれたりして、出席日数も少なかった」と振り返っています。

 豊が在学していた当時は、「御雇い外国人」から日本人教師への移行が進んだ時期であり、内科学ではエルウィン・ベルツの他に、ドイツやフランスへの留学経験をもつ青山胤通や三浦謹之助、入澤達吉らが教鞭を執っていました。豊は1905年に大学を卒業すると、青山教授の内科学教室で助手として勤務し、1907年より2年間ドイツへ留学しました。私費留学であったため、亡き父の遺財に加えて実家の土地を売却するなどして留学費用を捻出したことがわかっています。

2. 豊 ドイツ留学—ブレスラウ(現ポーランド・ヴロツワフ)

 1907年3月6日、横浜港より備後丸に乗船した豊は、インド洋を経由し5月2日ベルリンに到着しました。豊のドイツ留学の主たる目的は、当時内科学の分野において著名であったミュンヘン大学のフリードリッヒ・フォン・ミュラー教授のもとで学ぶことでした。そのため、まずはミュラーが学生時代を過ごしたブレスラウ大学(現ポーランド・ヴロツワフ大学)生化学教室で研究することを決めました。豊はここで聴講生としてフランツ・レーマン教授より指導を受けました。この時期、同大学の衛生学教室には、後に社会衛生学を日本に紹介したことで知られる福原義柄も聴講生として在籍していました。

 また、豊は1908年2月に弟・晉に宛てた書簡の中で「大学ニモ女学生大分混ジ居申候」と記し、さらに男子学生が女子学生を助ける様子は日本人には到底想像できないことだと伝えています。当時、ドイツ各地の大学において1900年から1909年にかけて女子学生の入学受け入れが正式に開始された時期でした。豊の書簡には、大学内の女子学生の存在に言及している箇所がいくつか見られます。

 さらに、ドイツの人びとが科学的な知識をもとに合理的な生活を送る様子や、女性が家事だけでなく余裕を持って教養や娯楽に勤しむ光景を目にした経験は、豊が帰国後に女子教育に着手する契機となりました。ドイツ留学を経た豊は、日本の女性に科学的な知識を普及することが家庭ひいては社会の強化に繋がり、さらに女性の地位向上に反映されるという考えを持つようになりました。

3. 豊 ドイツ留学—ミュンヘン

 1908年4月、豊はブレスラウを出発しミュンヘンへ向かい、当初の目的どおりミュンヘン大学医学部第二内科のミュラー教授のもとで内科学を学びました。当時、同じ教室には後にノーベル化学賞を受賞したハンス・フィッシャーが在籍していたといいます。豊は後年、化学に通じていたフィッシャーの母親のことを、理想の母親像として学生たちに語っています。

 1908年には豊の論文が“Biochemische Zeitschrift”(『生化学雑誌』)に掲載されました。家族宛ての書簡に「朝から晩までArbeit(仕事)」と書いたことからも、研究に没頭していた様子がうかがえます。この頃晉に宛てた書簡には、帰国後に医院の開業を志している旨や、晉の大学卒業後に共に研究し「天下ノ模範トモナリタクト存ジ居候」という、将来的な構想が記されていました。すでに豊は留学中から大学での教職のオファーがいくつか届いていましたが全て断っており、1909年6月の帰国後間もなく東京・神田に医院を開業しました。

 1913年、主論文「痛風ニ就テノ実験」とその他7篇の論文によって医学博士の学位を取得し、同年に東京・麻布にあらためて額田病院を開業しました。1915年に食生活の合理化を目指した著書『安價生活法』(政教社)を刊行するとベストセラーとなり、その後は内務省社会事業調査会の臨時委員なども務めました。1920年、鎌倉に肺結核療養のための額田保養院を開業した際には、政財界の関係者らが入院していたといいます。

 1925年、弟の晉とともに私財を投じて東京・大森に帝国女子医学専門学校(現東邦大学医学部)を創設しました。『東邦大学三十年史』によると、帰国後の医院開業の背景には学校設立のための資金を貯める目的があったと伝えられています。

4. 晉 外遊までの日々

 晉は兄・豊と同じく獨逸学協会学校に入学するため、1900年に13歳で上京しました。間もなく父親が病死し、晉は親戚から帰郷を提案されましたが、兄・豊がこれを固辞したため東京での学業を継続することができました。その後、旧制第一高等学校に進学し、1908年9月には東京帝国大学医科大学に入学しました。1913年の卒業時には優秀な成績を収めたことにより銀時計が下賜されています。卒業と同時に兄と同じ青山内科に入局し、同年11月に林春雄教授の薬理学教室へ移籍して研究を続けました。この時期、ドイツ留学を計画していましたが、第一次世界大戦の勃発によって行き先をアメリカへと変更しました。

 帰国後に博士号を取得すると、1919年8月より順天堂医院の医事研究会の学術指導者として招かれ、内科診療の一部を受け持ちました。晉は順天堂医院の院長・佐藤達次郎との間で将来的に順天堂研究所を設立する約束を取り付けており、1922年にこの研究所が開設されると晉が所長を務めました。しかし、1923年9月の関東大震災の影響で甚大な被害を受けた順天堂は、焼失を免れた研究所の建物を診療に使用したため、研究所は閉鎖を余儀なくされました。このとき晉は、被災した日本の研究者のために米・ロックフェラー財団が研究場所として提供した北京協和医学校で、約半年間を過ごすこととなりました。

 帰国の翌年1925年に豊とともに帝国女子医学専門学校を開設すると、晉は校長の職に就きながらいくつもの授業を持ち、さらに自らの研究も継続しました。この時期にはヨーロッパの研究者に助言を求め、さらに最新の研究施設を視察するため、ヨーロッパ各地を半年かけて巡りました。

5. 晉 アメリカ留学

 第一次世界大戦の影響により留学先をドイツからアメリカへ変更した晉は、1918年に大学より「米国ニ於ケル伝染病研究ニ関スル事項調査ヲ嘱託ス」の令を受け、アメリカのハーバード大学へ1年間の留学に出発しました。豊の援助による私費留学でした。

 1918年4月3日、横浜港よりサイベリア丸に乗船し、4月21日にサンフランシスコに到着しました。この時、現地で再会した大学の友人に「実は一寸も英語が出来ぬから心細い」と吐露しています。その後、シカゴを経てボストンへ向かいました。晉は「米国にて最有名な内科学者クリスチアンのクリニックに遊んでいる」と記述を残していますが、病理学の分野で著名であったハーバード大学のH. A. クリスチャン教授のもとで過ごした可能性があります。現存する晉のアメリカ時代の資料は少なく、動向の詳細については今後さらなる調査が必要となります。

 1919年3月に帰国すると、すでに出発前にほぼ完成していた研究を仕上げ、同年7月に東京帝国大学医科大学より医学博士の学位を取得しました。テーマは「心臓の自働及び調節機能に就て」でした。留学の目的と博士号取得時の研究内容に直接の関係は見られず、後にこの留学について晉は「医学教育や研究の状況を視察した」と振り返っています。

 また、晉はアメリカ留学中に結核問題の重要性に目覚めたと語っており、この留学がその後の研究の方向性を定める契機となりました。後にヨーロッパでサナトリウムを見学した際、「アメリカのそれに及ばない」と比較するなど、滞米中に目にした光景が晉の中で基準となっていたことが読み取れます。帰国後は1920年11月に兄・豊が開設した肺結核療養のための額田保養院へ毎週出向し診療していました。

6. 晉 北京協和医学院派遣

 1923年9月の関東大震災の影響を受け、晉が所長を務める順天堂研究所は閉鎖に至りました。このとき米国のロックフェラー財団は、被災した日本の研究者のために、財団が所有する北京協和医学院の研究室・器具材料・宿泊滞在全ての提供を決定しました。晉は学生時代の恩師である林春雄教授の推薦によって、10月に東京帝国大学医学部の講師に就任したうえで、北京行きの研究員8名の団長として1923年10月26日に横浜港から中国へ出発しました。

 上海に到着した後、蘇州、杭州を経て、南京で日本人が経営する医学校などを視察しました。北京協和医学院では、主に順天堂研究所時代からの免疫の研究を発展させた肺結核の特殊変調療法の基礎を築きました。また、後にエフェドリンの気管支拡張作用を報告したK.K.Chen(陳克恢)とC. F. シュミットに医学院で出会っています。1924年2月には南京で開催された支那全国医学大会で研究発表を行い、5月中旬帰途に就きました。

 1924年6月、『日本医事新報』に「支那から帰つて」と題した記事を投稿し、日本が義和団事件の賠償金等を基金として実施していた「対支文化事業(東方文化事業)」について、現地での十分な調査なしに「発作的の思ひつき」で展開していると批判しました。晉は北京滞在中、日本公使館へ毎日出向いて調査の必要性について意見を述べ、了解を求める努力をしたといいます。また、同記事の中で晉は、中国において医学関連の事業展開を提唱しました。

 兄と帝国女子医学専門学校を創立するにあたって、同年12月24日の東京日日新聞に「進んで日支親善のため有為な女医を支那に送る考え」を示しており、ここには晉の中国滞在の経験と近隣国に対する眼差しが反映されていました。

7. 晉 ヨーロッパ視察

 1936年当時、帝国女子医学薬学専門学校の校長を務めながら肺結核の特殊変調療法の研究を進めていた晉は、以前より交流のあったドイツのカイザー・ヴィルヘルム協会(現マックス・プランク協会)の医学研究所所長ルドルフ・クレールに、自身の実験成績について批評を求めるために渡欧を考えている旨を書簡で伝えました。クレールからは、晉にドイツ現地での講演を求める内容の返事が送られました。

 ヨーロッパ視察は1936年3月から半年間にわたり、その目的には自身の研究に関してだけでなく、研究環境や教育制度の調査も含まれていました。経由地のロンドンではロンドン大学薬理学教室を、またパリではパスツール研究所などを見学し、さらに当時の著名な研究者らを訪問しました。

 その後、ドイツでは病理学者ルートヴィヒ・アショフや生化学者オットー・ワールブルク、さらに当時の物理学者でカイザー・ヴィルヘルム協会会長のマックス・プランクとも会談しています。また、6月18日には日独両国の医学者ら約70人が参加した「日独の夕べ(Deutsche-Japanisch Abend)」が開催され、晉は肺結核に関する講演を行いました。第一次世界大戦によって一時期ドイツと日本の医学界は距離が開いていましたが、「日独の夕べ」は再度関係を結びなおす契機となった催しと捉えることができます。

 帰国後、雑誌『社会及国家』にカイザー・ヴィルヘルム協会が所有する研究所の紹介記事や、日本の教育制度の問題点について寄稿しています。さらに1939年にはカイザー・ヴィルヘルム協会のハルナック・ハウスをモデルにして、額田医学生物学研究所と付属病院を千葉県・稲毛に開設しました。この研究所は、長期にわたって落ち着いて研究できる環境を整備したいという晉の夢を実現したものでした。龍知恵子(医学科1回生)など女子専門学校時代の医学科卒業生7名は、ここでの研究成果をもとに博士号を取得しており、女性研究者を育成する場としても長い間機能していました。晉がヨーロッパでの経験をいかして設立した額田医学生物学研究所は、東邦大学と女子教育の歴史を叙述する上で欠かすことのできない重要な場所となっています。

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2023年01月26日 更新

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