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戦時下の理系女子学生

【展示会場1】
場所:東邦大学大森キャンパス 医学メディアセンター
期間:2020年9月1日(火)~9月30日(水)

【展示会場2】
場所:東邦大学習志野キャンパス 習志野メディアセンター3階
期間:2020年10月22日(水)~12月20日(日)

【展示会場3】
場所:東邦大学大森キャンパス 額田記念東邦大学資料室
期間:2021年3月22日(月)~5月28日(金)

≪概要≫
 国家総動員法が制定された1938年以降、教育現場においても戦時色が強まり、女子学生には勤労奉仕・勤労動員を通じて銃後の活動が求められました。本学の学生も例外ではなく、医学科(現・医学部)の学生は「学徒医療隊」として無医村へ、そして薬学科(現・薬学部)と理学専門学校(現・理学部)の学生は長期にわたって薬品工場や軍需工場、研究機関などへ動員されています。さらに終戦間際に実施された医学科集団疎開や、終戦後の学校存続の危機、習志野移転問題など、当時の学生や教職員はさまざまな苦労に直面しました。

 資料室では、終戦前後の医学科卒業生による学年文集『ここに道あり』と『青春のかたみに』、さらに教職員が記録した「学校日誌」などの所蔵資料を手がかりに、さまざまな資料の中に分散している記録を集めました。各学科の動員先や医学科集団疎開などを含む学生の動向、また終戦後の新制大学昇格に至る復興までの道のりを通して、当時の理系女子学生が過ごした日々を振り返ります。

1. 戦時体制下の学園

 1938年に国家総動員法が公布されると、教育現場にも戦時色が現れ始めました。同年6月に文部省より「集団的勤労作業運動実施二関スル件」が通牒され、学生の勤労奉仕への動員が開始されます。勤労奉仕として、長期休暇に清掃や土木関係の簡易的な作業が実施されました。

 また、1941年には帝国女子理学専門学校(現理学部)の設立が認可されました。創立者の一人である額田豊は、理学専門学校の設立を以前より構想していましたが、長らく文部省より認可が出されないままの状態が続いていました。しかし、戦時体制強化によって科学振興が叫ばれ男性の軍動員が増加すると、女性への理系教育が急務となり、こうした背景も相まって理学専門学校の設立が実現しました。

 同年4月、本学では学校の修練組織の強化を図るため、創立期より続いた学生による自治組織「学生会」を「帝国女子医学薬学専門学校報国団」へ改称・再編成しました。学科ごとに「大隊」が、さらに下部組織として「分隊」が編成されることとなりました。勤労動員の際はこれらの「隊」ごとに動員先が決定され、また、戦時救護の訓練なども報国団組織を中心に行われました。

 1941年10月、大学・専門学校の修業年限短縮について勅令が公布されると、初めは3か月であった短縮期間が1942年には半年、さらに翌年には1年に拡大され、動員体制が強化されるようになります。

2. 学徒勤労奉仕・動員

 1943年6月には「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、学徒動員の強化が図られることとなりました。理系の学生に対しては、それぞれの専門に応じて動員先が決定しました。

(1)医学科

 戦時下、全国各地で医学専門学校が増設され、医師需要に応じる措置がとられました。本学医学科においても授業が優先されたため、長期にわたる動員は実施されませんでした。

 しかし、1944年に文部省より「女子医学徒勤労動員要領ニ関スル件」が通牒され、帝国女子医学薬学専門学校と東京女子医学専門学校に対し、無医村へ集団疎開している児童の診療補助・健康指導の実施が命じられました。本学からは同年11月から翌年2月にかけて、当時の医学科3年生(17回生)が東日本を中心に「学徒医療隊」として24か所に動員されています。

(2)薬学科

 戦局の悪化に伴い動員期間が拡大され、1944年3月に「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要項」が閣議決定された際には、それまで動員が少なかった理系の学生に対しても動員体制の徹底が求められ、軍関係の工場や病院などへの配置が決定しました。

 理系の学生に対する動員は第2学年と第3学年に比重が置かれ、専門とする学科の種別に応じて動員先の工場が決めらましれた。学生は薬品工場や軍需工場に動員され、動員中の授業は工場内で週に数回行われたといいます。

(3)理学専門学校

 薬学科と同様に、理学専門学校の学生も同時期に軍需工場や研究所などへ動員されました。しかし、動員先が空襲に遭うと工場疎開に伴って全国各地へ分散動員し、工場の用地開墾や建設などに加わることもありました。

3. 終戦、医学科集団疎開

 本土への空襲が激しさを増すなか、理事長の額田豊は空襲被害を想定して、医学科の集団疎開を計画していました。額田豊自ら疎開候補地へ赴いて交渉を行い、1945年4月9日、長野県南佐久郡臼田町(現佐久市)と福島県会津若松市の2カ所が疎開先として決定しました。なお、この時期の薬学科と理学専門学校の学生は通年の勤労動員が実施されていたため、全学での疎開は不可能でした。

 1945年4月15日夜、軍需工場が密集していた大森・蒲田周辺は空襲によって焦土と化します。本学は本館と図書館以外の大部分の施設を焼失しましたが、学生や教職員から犠牲者は出なかったと伝えられています。建物の焼失により授業の継続は困難となり、学生は一時自宅待機となりました。

 この事態を受け、6月に医学科の集団疎開が実施されました。主な疎開先となった長野県では、臼田町を中心として周辺の寺や公会堂、映画館などの施設が用意され、学生はいくつかのグループに分かれて集団生活を送ることになりました。教職員も交代で出張していたため、同じ科目の授業が1週間続けて行われたといいます。終戦前後の時期は物資の欠乏が著しく、疎開先でも学生たちは食糧事情に悩まされるなど多くの困難に直面しました。

 8月15日に終戦を迎えた後も、東京での学校再開の目途が立たず、医学科の学生は翌年1月頃まで疎開先で生活を続けることとなります。

4. 戦後復興

 終戦後の授業再開にあたって多くの遠方出身者のために、焼失した寄宿舎の再建が急務となりました。1945年9月、学校からほど近い大田区女塚の中央工業(当時)の社員寮を借用し、ここを新たな寄宿舎としました。

 また、終戦後新たに千葉県習志野市の騎兵連隊跡地の借用が許可されましたが、病院も含めて習志野へ移転する案と、大森で建物を修理して再開する案で学内が対立し、復興は膠着状態が続きました。

 1945年10月より薬学科と理学専門学校の授業が再開されましたが、年末から翌年1月にかけて疎開先から医学科の学生が戻ると、校舎のスペース不足が問題となりました。焼け残った本館では午前・午後の2部制で授業が実施されましたが長くは続かず、1946年に薬学科と理学専門学校の習志野移転が決定しました。

 1947年1月、ついに校長の額田晉が筆頭となって「医学科復興促進会」を結成し、保護者や卒業生に復興資金の寄付を呼びかけ始めます。在学生も学校の復興資金集めのためにダンスパーティを開催するなど、あらゆる努力が重ねられました。その結果、学校や病院の再建が始まり、3月には女塚の寄宿舎の一棟に仮病院を開設しました。また、11月には学校名から「帝国」を外し、「東邦女子医学薬学専門学校」並びに「東邦女子理学専門学校」へと改称しました。

5. 大学昇格

 戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の公衆衛生福祉局の指導によって医学教育改革が実施され、医学教育は1951年以降すべて大学で行われることが決定しました。1946年には全国の医学専門学校に文部省の医学視学委員が派遣され、学校の存続や大学昇格の可能性を調査・判定するために実地踏査が行われました。このとき本学は戦時下の空襲の影響で施設・設備が整っておらず、一度は廃止の判定を受けることとなりました。しかし、1947年1月結成の「医学科復興促進会」の活動によって復興の意欲が認められ、同年3月には以前の判定を覆して学校の存続が確定します。

 またこの時期、男女間における教育の機会均等などを目的として1945年12月に「女子教育刷新要綱」が閣議了解され、さらに翌年には米国教育使節団より日本の教育分野における男女格差の排除が求められるようになります。この動きを受け、本学においても大学昇格を機に男女共学とすることが決定しました。

 薬学科と理学専門学校は、移転先の習志野で卒業生らに寄付を呼びかけて騎兵連隊跡の兵舎や厩舎を校舎として使用できるよう整備を進めていました。1949年に薬学科は東邦薬科大学として、1950年に理学専門学校は東邦大学理学部として医学科に先立ってそれぞれ新制大学に昇格しました。医学科は新制大学昇格の前段階として1947年に東邦医科大学予科(旧制)を開設し、1952年に新制大学の東邦大学医学部に昇格しました。これによって自然科学系の3学部を擁する新制大学東邦大学として新たに出発したのです。

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2024年09月19日 更新

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