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幾瀬マサと東邦大学—山野を歩き、生きた花を集め

博士号授与の頃の幾瀬(1957年)

【展示会場1】
場所:東邦大学習志野キャンパス 習志野メディアセンター3階
期間:2019年11月1日(金)~12月22日(日)

【展示会場2】
場所:東邦大学大森キャンパス 額田記念東邦大学資料室
期間:2020年1月8日(水)~2月21日(金)
 幾瀬マサは、帝国女子医学薬学専門学校(東邦大学の前身)薬学科の卒業生であり、日本における花粉学(主に花粉形態学)の礎を築いた研究者として活躍しました。また、戦前から長きにわたって、教職員として本学の発展に尽力した人物の一人でもあります。本学退職後には「日本女性科学者の会」や「女性科学者に明るい未来をの会」などの活動を通して、女性科学者の地位向上に努めるなど、その活動は多岐にわたりました。
 本展では、幾瀬マサの生涯をさまざまな視点から振り返り、関連資料や写真とともにその歩みをご紹介します。

薬学科の日々—植物採集への目覚め

1914年、幾瀬マサは埼玉で代々続く医家に長女として生まれました。地元の埼玉県立熊谷高等女学校を卒業後、医師である父の勧めで1931年に帝国女子医学薬学専門学校の薬学科へ入学しました。当時、女学校の同学年から薬学専門学校へ進学したのは幾瀬ひとりだったそうです。

 入学後は、定期的に開催される植物採集の集まりに欠かさず参加し、卒業までに約2,000枚にもおよぶ標本を作成したといいます。夏休みには、学校で作成したプレパラートを自宅へ持ち帰り、観察してスケッチするなど、学生時代から植物の研究に勤しんでいました。

 1935年に薬学科を卒業すると、薬用植物学教室の助手として久内清孝教授のもとで指導を受けますが、2年間助手を務めた後に家族から実家へ戻るよう促され、やむなく退職を決めました。その後もひとり地元の山で植物採集を続ける姿を見た家族は、ようやく就職への理解を示すようになりました。同じ時期に、薬用植物学教室の助手が募集されたため、1939年に再び助手として採用されました。

戦争を乗り越えて—大森の空襲、習志野移転

 助手として学校へ戻った頃、授業内では軍事教練が開始され、教育現場にも戦争の影響が現れ始めました。1943年以降は学徒勤労動員が本格化し、薬学科の学生も軍事関係の薬品工場や化学工場などに動員され始めます。そのため、幾瀬は仕事や研究の側ら、学生の動員先の巡視も行っていました。

 1945年4月15日夜、大森・蒲田一帯の大規模な空襲によって、本学は施設の大部分を焼失しました。終戦後、一刻も早く学校を再開するため、近隣の工場の寮を寄宿舎として借りることが決定しました。この時、幾瀬は校長の額田晉より寄宿舎の舎監を任され、環境整備や学生の生活指導を担うことになります。

 同年10月に習志野の旧騎兵連隊の建物を新校舎として確保した本学は、薬学科と理学専門学校の習志野移転を決定しました。この時期は戦後の財政難と物資不足が重なったため、習志野の環境整備が進まず、これを理由に多くの教職員が退職していきました。しかし、幾瀬を含む本学卒業生の助手数名は事務員の仕事を兼務し、母校の復興のために奔走しました。

花粉学との出会い—GHQ調査班への参加

 1950年頃、GHQによって花粉調査が行われた際、幾瀬は久内教授に連れられ、ともに調査に協力しました。この調査が行われたのは、戦後間もなく横浜駐留の米軍関係者にぜんそくの症状が多く見られ、その原因のひとつとして当時すでにアメリカで注目されていた花粉が挙げられていたためでした。調査の結果、原因は近隣工場から出たガスによる大気汚染であることが判明しましたが、当時まだ国内の植物の花粉を概観する報告が出されていなかったため、幾瀬はその後も全国各地で花粉を採集し研究を継続しました。この時の経験が、幾瀬にとって花粉研究の出発点となりました。

 日本原産植物の花粉粒約2,300種の形態について調査した幾瀬は、その集大成として1956年に『日本植物の花粉』を刊行しました。多くの図や表を附したこの著書は、様々な分野の研究者から歓迎されたといいます。また1957年には、これを主論文として、東京大学より女性で4人目となる薬学博士の学位を取得しました。幾瀬は日本の花粉学の基礎を築くとともに、新たな学問体系の確立に寄与した人物の一人といえます。

薬学部長時代—学生運動、大学院設置

 1969年4月、国内で女性初の薬学部長に就任しましたが、当時は全国的に学生運動が激化し、大学の民主化が叫ばれた時期でした。とりわけ1969年は、本学においても経理の公開や食堂の設置などが学生から要求され、団体交渉やストライキ、大学封鎖が行われ混乱を極めました。幾瀬も団体交渉の際には、学生に第一線で対応していました。また、同年11月に学内の状況を考慮した教職員らによって「大学改革委員会」が組織されると、幾瀬も委員のひとりとして大学規則の改定などに取り組みました。教職員としてだけでなく、卒業生として母校の発展のため積極的に改革をすすめ、戦後の東邦大学の基礎を固めていきました。

 1973年に薬学部長に再任した際には、大学院薬学研究科の設置に尽力しました。それまで学生運動への対応や修学環境の整備が優先されていたため、大学院の設置は薬学部にとって悲願でした。その後1979年3月に退職した幾瀬は、同年4月に開設した大学院薬学研究科の教授に就任し、引き続き研究と教育に専念しました。

退職後の活動—研究者、教育者として

 大学退職後も研究や教育を行う側ら、「日本女性科学者の会」や「女性科学者に明るい未来をの会」などの活動にも携わっていました。戦後、女性にも高等教育が開放されたことで理系の女性研究者も増加し始めましたが、日本における社会的評価は低いままでした。幾瀬はこれらの活動を通じて研究者同士のコミュニティ創設を目指し、女性研究者の地位向上に尽力しました。1987年には、長年にわたって研究や教育へ従事してきたこと、日本花粉学会において指導的な役割を果たしたこと、さらにこれらの活動を通して女性の社会的地位の向上に努めた功績が称えられ、勲四等宝冠章を受勲しました。(※「日本女性科学者の会」発足当時は「日本婦人科学者の会」)

 幾瀬は生涯を通じて、学生時代に校長の額田晉から教えられた「人生の意義は努力にあり」という言葉を大切にし、自身が教職員として学生に接する際もこの言葉を伝えていました。この教えを自らの行動で示し、様々な分野で功績を残した幾瀬は、2011年に96歳で永眠しました。

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2020年05月15日 更新

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