額田豊・晉の生涯 東邦大学のルーツをたどる

日時:2015年6月14日(日)
会期:2011年6月23日(火)~8月19日(水)
会期:2015年10月15日(木)~11月11日(水)
大正14(1925)年に帝国女子医学専門学校として開校した東邦大学は本年、創立90周年を迎えました。本学は医師である額田豊・晉の兄弟2人が創立した学校です。主に、理事長として経営に徹した兄、校長として学生の指導に当たった弟、あらゆる面で協力しながら本学の基礎を築きました。 豊・晉は外見も性格も似ていない兄弟でしたが、教育・医療に対する熱意は同じでした。兄弟はどのような家庭に生まれ、どのような人生を歩んだのか。90周年を機に改めてその足跡を振り返るべく、『額田豊・晉の生涯 東邦大学のルーツをたどる』(東邦大学理事長 炭山嘉伸著)が発行されました。 今回の展示では、書籍作成にあたり関係者の方々からご提供いただいた情報・資料を中心に、その歩みの一端を紹介します。ご協力いただいたみなさまに感謝するとともに、この展示を通して、大正から昭和という激動の時代に多くの社会的事業を成し遂げた兄弟の、学校創立にかける想いを受け取っていただければ幸いです。 |
医家三代の家に生まれて
曽祖父・太仲、祖父・一中ともに京都や大阪で儒学と医学を学んだ後、岡山県邑久郡飯井村(現在の瀬戸内市長船町)を中心に診療を行い、近隣に広く知られた医師でした。篤学で努力家だった太仲は詩歌にも造詣が深く、開いていた私塾では医学に加えて漢学も教えていました。一中もまた篤学な人で、唯一の趣味は毎日朝早くから夜遅くまでの読書だったそうです。
父・篤太は養子として額田家に入り、ひとり娘の宇多と結婚しました。岡山や京都で儒学を学んだ後、東京大学医学部の通学生を卒業、明治17(1884)年に開業しました。内科を得意としましたが外科手術も行うなど研究熱心だったため、多くの患者が診療を求めて集まりました。
母・宇多は多忙だった篤太に代わって家内の雑事一切を取り仕切り、5人の子どもたちの性格を深く理解していたといいます。若くして篤太が急逝した後も、子どもたちの教育だけは存分にしたいと、勉学への協力を惜しみませんでした。この母への感謝が、のちに兄弟が「女性のための科学教育」を志すきっかけの一つとなりました。
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篤太(明治23年頃、33歳)
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宇多(大正12年、66歳)
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兄弟の生家(昭和47年頃)
右の建物は篤太が京都の大工に造らせた洋風の診察室。 -
東京大学医学部通学生時代の篤太
(左から2人目、明治10年頃)
通学生は、本科より修業年限が短く、実地で西洋式の医療を行う医師を育てる課程であった。
事業に取り組んだ兄、研究に打ち込んだ弟
小学校卒業後に岡山から上京し、獨逸学協会学校、第一高等学校を経て明治34(1901)年に東京帝国大学医科大学へ入学、卒業後には約2年間ドイツへ留学しました。学生時代から合理的な性格で、大正2年創立の額田病院を始め、関わった病院・学校には「経営」の視点を欠かしませんでした。
豊が積極的に事業に取り組んだのは、父亡き後に弟妹たちの親代わりとして経済的・精神的に一家を支えるためでもあり、晉が大学卒業後アメリカに留学する際も、費用を援助しました。
弟 額田晉(1886~1964年)
獨逸学協会学校入学のために上京すると、豊のもとに身を寄せました。幼少期より虚弱体質だった晉は豊の指導のもと、規則正しい生活を心掛ける内に、徐々に健康になったそうです。豊の影響で中学から大学までボート部に所属し、高校時代からは水泳部にも入るなど、スポーツ好きでした。
一方、大学時代はボート部合宿にも講義ノートを持参するなど勉強熱心でもありました。卒業後は、他機関での研究活動を通して医学・理学両博士号を取得し、晩年まで結核研究を行うなど、生涯にわたり学問への探求を続けました。

[前列左から]
静子・文子・年・宇多・粲・倭文女・かつら
[後列左から]
小高氏・豊・晉・坦・貞
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兄弟4人(大正2年)
[前列左から]豊・晉
[後列左から]貞・坦 -
晉 東大科対抗競漕会優勝記念
(2列目中央、明治45年)
ボート部での晉は舵手を務めた。当時、舵手は選手としてだけでなく、選手の人選、練習の段取りんど、監督やマネージャーの役割も兼ねていた。
帝国女子医学専門学校開校へ
そして大正14(1925)年、私財を投じて東京府在原郡大森町に帝国女子医学専門学校を開校します。その後、大正15年に付属看護婦養成所、昭和2年に薬学科、昭和16年に帝国女子理学専門学校を次々と開設し、豊は理事長、晉は校長として女性のための自然科学系総合学園を作り上げていきました。
修業年限が短い専門学校でも相当の知識を教授するために、講義は筆記させずに講述を印刷配布するなど、時間を有効に使うように工夫をしました。また、試験で良い点数を取ることよりも実際に役に立つ人材を育てることに重きを置いたため、試験結果の公表はせず、学生がお互いに協力し合って勉強を楽しめるように指導しました。その結果、医・薬学科、理学専門学校(6専攻のうち4専攻)の1回生は文部省の指定試験に全員合格し、2回生以降は無試験で卒業と同時に医師・薬剤師・中等教員の資格をそれぞれ取得できることとなりました。
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創立時の木造校舎前にて(大正14年)
左から豊・晉 -
開校・開院記念日(大正14年)
12月6日に開催された開校・開院披露
園遊会は、約2,000人の招待客があり、模擬店や学生のダンスなどが催された。 -
新校舎 竣工式(昭和4年)
開校から4年後、鉄筋コンクリート造りの校舎が増築された。(現在の医学部本館) -
皮膚科学講義(昭和9年頃)
「科学」を通して、「科学」とともに
また、大正2年には医学博士の学位を取得し、戦後まで内務省医務嘱託衛生顧問や逓信省社会事業調査委員も務めました。
幼年期より多くの近親者の死を体験し、その死を乗り越えるために自然と人間の関わりを見つめ続けた晉は、学園を創立すると「心の教育」に重きを置きます。職業としての医師ではなく、社会の指導者を目指してほしいと考え、自らも修身の授業を担当しました。そして人生問題に悩む学生の応えて「科学的人生観」を考え出し、医療人として歩むために必要な「医の倫理」を説きました。
その後、全国各地で講演を重ね、昭和36年に「世界観研究会」を創設し、さらなる普及に努めました。この思想の集大成が『自然・生命・人間』(西川書店、昭和32年)であり、現在まで受け継がれている東邦大学の建学の精神の由来となっています。
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ドイツ留学中の豊
(2列目左から3人目、明治41年) -
鶴風会での科学的人生観講演(昭和7年)
鶴風会は、卒業生の同窓会組織であり、晉が命名した。
時代の病 結核との闘い
豊は、当時唯一の治療法であった大気安静栄養療法を広めるべく、雑誌『療養生活』などに啓蒙記事を掲載しました。
大正9(1920)年にサナトリウム「鎌倉額田保養院」を開設、さらに、昭和13年には小児結核や虚弱体質の子どものためにの全寮制小学校「鎌倉学荘」を開設し、適切な医学的配慮に基づいた生活を指導しました。両施設は学生たちの見学実習・静養施設としても活用されました。
晉は、アメリカ留学を機に結核問題の重要性に気付き、帰国後、結核菌に対して身体の免疫力を高める物質を探求し、「特殊転調療法」と名付けて生涯の研究テーマとします。
昭和11年に約半年間ヨーロッパ各地の研究施設を視察した晉は、落ち着いた環境で、さまざまな分野から総合的、長期的に研究が続けられる施設を理想としました。それを実現したのが、昭和14年、千葉県稲毛に開設した「額田医学生物学研究所」でした。ここでは、帝国女子医学専門学校卒業生など多くの女性科学者を育成し、その研究結果は併設した付属病院での治療に活かされました。
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鎌倉額田保養院(昭和16年)
大気安静栄養療法を治療方針に掲げ、『療養生活』を発行していた自然療養社と共催で講演会を開催するなど、病気を学びながら療養する施設をめざした。 -
額田医学生物学研究所(昭和16年)
松林に囲まれた小高い丘の上にあり、開設当初は眼下に海が広がっていた。職員住宅や動物舎も備えられ、裏手には広大な農園もあった。
「帝国」から「東邦」へ

空襲によって周辺が焼失した中、当時の教職員と学生の消火活動によって戦禍を免れ、現在も医学部本館として教室や事務室などに使用されている。
昭和30年、晉は額田医学生物学研究所内に居宅を設け、結核研究と「科学的人生観」の探求を推し進めて関連書籍を続々と出版しました。昭和32年には豊の後任として東邦大学の理事長・学長に就任、多忙な日々を送っていましたが、7年後の昭和39年、がんのため77歳で逝去しました。
学園の役職を退き顧問となった豊は晩年、自宅で過ごすことが多く、散歩と読書を好んでいましたが、学校のことは片時も忘れたことはありませんでした。2年にわたる療養生活を送った昭和47年、94歳で逝去しました。
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習志野キャンパス校門(昭和21年)
過渡期のため、左に大学、右に専門学校の校札が掛けられている。 -
大森キャンパス(昭和30年頃)
昭和22年に病院を再開後、病棟を次々と増築し、施設と診療体制を整えていった。 -
豊と晉(年代不明)
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兄弟4人
(左から坦・静子・豊・晉、昭和29年)
額田兄弟の生涯と東邦大学の歩み