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新規所蔵資料展2012

日時:2012年4月9日(月)~5月11日(金)
場所:医学部本館1階 額田記念東邦大学資料室

昭和期の「専門学校入学」

 大正14(1925)年に帝国女子医学・薬学専門学校としてスタートした本校は、当時まだ普及していなかった女子の理系教育に力を注いできました。昭和17年度の募集より、「理学専門学校」が新設されます。

 <医学科入学案内>
 修業年限:5か年
 入学資格:1.高等女学校卒業者
        2.専門学校入学検定試験合格者
        3.同規定により、一般専門学校入学に関し指定せられたる者
 募集人員:150名
 入学試験:筆記試験(国語と数学(算術および代数))、口答試問
 学費   :入学金10円、授業料年額200円
        ほかに実習費年額30円、報国団費、教科書代35円、
        制服代(夏冬服)54円

 入学に際しての試験については、『本校の入学試験はなるべく平易に常識的に行う方針でありますから、入学試験のためのにわか勉強は全く不必要であります。
…受験生各人につき高女卒業程度の諸種の問題を提出してこれに口頭をもって答えしめ、同時に人物考査をも行い評点を決定し、筆記試験と口答試問との評点に高等女学校在学中の成績、身体発育の状況および環境をも総合して優良なる者より順次に入学を許します』と記述されています。
(17年度の医学科案内より)

紙不足のなかでの『教科書』と授業

 山下泰郎先生によるこの教科書がつくられたのは、昭和21・22年のことです。終戦直後の日本は全体的な資源不足に陥っており、紙もまた、配給に頼るだけの日々でした。
 そのため、昭和20年を境にして休刊に追い込まれた雑誌も少なくなく、印刷による大量生産は事実上不可能となりました。
 そのような状況で、学生たちの学びを支えたのは、先生が自らの手によって作り上げたガリ版刷りの教科書でした。昭和30年代以降になると、教科書も表紙つきの製本に切り替わっており、本冊子は、紙不足の影響を直接受けた時期に作成されたという点で貴重な資料であるといえます。
 ページ内には、学生による書き込みが多数残されており、厳しい環境にめげることなく熱心に勉学に励んだ、当時の様子を窺うことができます。

『社会及国家』

 当時の知識人たちが集まって創刊された『社会及国家(しゃかいおよびこっか)』は、大正3年1月から30年以上にわたって続けられた同人誌の一つです。
 東邦大学の前身である、帝国女子医学専門学校を創立した額田兄弟の弟・額田晉先生も、この同人誌に数回寄稿しています。その内容は医学にとどまらず、ドイツに関する話や建学の精神「自然・生命・人間」につながる人生観などが、この小さな冊子のなかで語られています。


《額田晉先生の論文》    当資料室では、このうち5本の論文(★印)を保管。

★大正3 (1914)年 2巻1「名刀正宗論」
★大正11(1922)年 99  「軍縮論」
 大正12(1923)年 109 「実験治療学と社会及国家学制改革の要点に関する話」
★昭和7 (1932)年 200 「私の人生観」
★昭和11(1936)年 247 「ドイツ国家の興隆と民族発展の源泉」
★昭和13(1938)年 270 「心の糧」
 昭和14(1939)年 277 「医学生物学研究所の設立について」



「一匡社」とは、帝大の仲間同士で作り上げた有志団体で、大正2年4月8日、君島一郎、岸巌、藤井啓之助ら計8人が津島寿一宅に集まって創立されたとあります。(『額田晉 自然・生命・人間』昭和47年)


「一.吾等ハ国民ノ国家的及社会的活動ノ正当ノ範囲ヲ探求シ、主張シ、実行セム事ヲ期ス。一.斯ノ如クニシテ吾等ハ国運ノ振興ニ努力シ、国民殊ニ青年ノ士気ヲ鼓舞セム事ヲ期ス」の宣言のもとスタートします。当時、額田晉先生は26歳でした。
 政界・財界・医学と幅広い人材が集まり、交友の深かった岸巌氏の誘いで、「第200号記念号」には小説家の谷崎順一郎も参加しています。

<寮生活の思い出>

「私達の入った学生寮は、現在のマンションの様な学生寮とは似ても似つかぬ正に馬小屋で、二階の部屋は屋根は有っても天井はなく、両端の部屋でも天井に向かって叫べば話が出来るし、大きな声でみんなで上を向いてコーラスも出来ました。馬小屋の愛称で呼ばれた学生寮の生活は、私の生涯にとって、たった一度の素晴らしい経験でした。
 同室は佐生さん、高須さん、吉村さんと山本(※並木様)の四人だったと思いますが、試験時期には通学組も泊まり込み賑やかなものでした。クラスで何人が寮生だったか記憶に有りませんが可成り大勢の人が寮に入って生活を共にしていました。舎監は怖いけど話しの分かる幾瀬先生でした。」


「当時は戦後の食糧難でしたので寮の食事もそれなりのものでしたが、一番記憶に残っている食べ物は、「いろは母さん」が良く昼食に作ってくれた[キョロン]と皆が名付けたデンプンを固めて小判型のもの一個がスープに浮いているものでした。この[キョロン]は、当時巷で流行っていた「スイトン」とは違い、やや透明感のある独特の食感のものでした。
 また、育ち盛りの寮生は夜になるとあちこちの部屋で密かに電気蒸しパン機(ブリキ板の間に電気を流す?)で蒸しパンを焼き始めたものです。たちまち電気オーバーとなり、停電。たまたま寮の厚生委員をしていた私は各部屋を廻って「使わないで下さい」と云っては、ハシゴを抱えて一階と二階の間に有った配電盤の切れたヒューズを取り替える。これを何度も繰り返した記憶があります。」


(『帝国女子薬専19回生 65年の思い出集』より抜粋 並木和子様)

<津田沼移転記念学校祭>

「昭和22年の11月に津田沼移転を記念して運動会と演劇祭(真夏の夜の夢)をしています。短い学生生活でしたが、充実してました。(中略)…学校祭でクラスの資金作りにクラス総動員で色々の企画をし、学校に寝泊まりして奮闘した様子があります。」


「企画1.菊芋から果糖を抽出して果糖の結晶を作ろう。企画2.椰子油から石鹸を作ろう。企画3.ふかし饅頭をつくろう。
 この企画1と2は、薬化学の時間に当時新進気鋭の滝川先生に習った事をすぐ実利に結び付けようという若さ!(先生もお若かった。)何処からか反応釜を借りてきて実験室に泊まり込んでやりました。果糖の結晶化なんて少し有機化学が分かってきてみると、とても大それた企画です。勿論、企画1と2は失敗に終わり、企画3のふかし饅頭のみ利益がでて、翌年春の千葉大学他の大学とのオペラ上演に少し役立ったと記憶しています。」


「焼け出され、習志野に移転したばかりでしたが、先生方のご苦労のもとで有機の合成や無機の分析に加えて、錠剤や座剤を作ったりもしました。当時はお腹の空いた時代だったので、座剤に使うカカオ脂の匂いにチョコレートを思いだし、クマリンに桜餅を、バニラにアイスクリームを連想してなかなか回覧が進まなかった事を記憶しています。生薬の時間には、朝鮮人参などの組織の綿密画をケント紙に書きました。ついつい片目を閉じてしまい幾瀬先生に叱られたものでした。」


「…大森(※移転前)での学校生活で記憶に残っている事は、平野先生の講義に『薬学に入学したのだ』と感じた事、それと校歌の練習です。平野先生の送別会では芸達者の方々が色々と演技され、活躍されましたね。」


(『帝国女子薬専19回生 65年の思い出集』より抜粋 並木和子様)

引揚援護事業への協力

 昭和20(1945)年の第二次世界大戦後、諸外国各地に渡っていた日本人約660万人が帰還できるよう、厚生省管轄下の引揚援護庁が中心となって進められたのが、この引揚援護事業でした。


 何かの役に立ちたい、という思いで立ち上がった都内の学生たちは「在外同胞救出学生同盟」という有志団体を結成します。駅頭への出迎え、そして引揚列車に添乗して、怪我や不調を訴える人々の処置を行うのが大きな任務です。
 医療班の学生は、病院の先輩からさまざまな指導を受けたあち、車両に乗り込み「おはようございます。私達は帝国女子医専の学生ですが、気分のわるい方や、ご不自由な事のある方はお申し出で下さい」と声をかけていきます(『青春のかたみに—疎開した女子医学生の記録—』)。
 一方、情報班は、これから帰る故郷のようすを尋ねられる人々に対応しながら、引揚車両別に乗客名簿をつくります。これを次の列車に伝達することで、駅で出迎える同胞に、誰が搭乗しているのか確かな情報が届けられたのでした。


 東邦女子医学専門学校の学生団による活躍と、無償の奉仕活動。終戦から3年後の昭和23(1948)年、東京都知事によって表彰されることとなったのがこの表彰状なのです。
 (なおここでいわれる引揚者とは、「非戦闘員」に用いられている呼称です。)
感謝状
(昭和23年12月23日)

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2024年03月19日 更新

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