理学部生命圏環境科学科

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分子の形から発癌性を予測する -「地球のうなずき」を目指して-

 昨年来、PM 2.5(particulate matter 2.5)が話題になっている。PM 2.5は大気中に浮遊している物質で、粒子径が2.5 μmと非常に小さい。工場の煤煙や車の排ガスなどを介して大気中に放出される。呼吸により肺の奥まで吸引され、しかも発癌物質が付着しているので人の健康への影響が強く懸念される。特に中国や東南アジア諸国では深刻な問題になっており、時折、それらの大都市がスモッグで視界がないくらい黒ずみ、マスクをした人がその中を行き交う姿が放映されている。それを見ると、「地球のぼやき」を通り越して「地球のむせび」とでも形容したくなる。

 それはともかく、大気汚染がそのように大きく取り上げられるのは、私達にとって空気が必要不可欠であるためである。空気と同じくらい私達の日常生活で重要なものに食べ物がある。食べ物により毎日のエネルギーの源を得て、人間活動を行っている。誰もが自分たちが口にする物は安全であるはずだと思っているし、当然、安全であるべきである。しかし、食べ物そのものは安全であっても、加熱調理により安全でなくなる場合もある。実は魚や肉の加熱調理によって生じる「焦げ」には発癌物質が含まれているのである。その発癌物質とは、図1のような形をしたヘテロサイクリックアミン類(HCA)である。
代表的なヘテロサイクリックアミン(HCA)
図1 代表的なヘテロサイクリックアミン(HCA)

 HCAの発癌性を世界で最初に指摘したのは本学名誉学長の杉村隆先生である。杉村先生の『発がん物質』(中公新書1982年)によれば発見の経緯は以下のようであった。

「ある日曜日、当時住んでいた公務員アパートの台所で、女房がサンマを焼いて煙をもうもうと部屋の中に立ちこめさせた。突如としてタバコの煙が悪いのなら、この魚の煙も良いはずがない、魚の変異原性こそ調べられるべきであると思った」

 実際に研究室で干物の魚をガスコンロで焼き、逆さにしたロートで煙を集めて調べた結果、煙には強い変異原性があることが分かった。さらに、変異原性が「煙にあるなら魚の上に生じた黒焦げの部分にもあると思った。煙とは黒焦げが粒子状になった物に過ぎないからである」ということで、黒焦げ部分を調べた結果、やはり変異原性を確認することができた。そして焦げの中の変異原物質としてHCAが同定されたのである。

 「焦げ」を食べたからといって、もちろん、直ちに癌になるわけではない。癌は遺伝子の病気である。HCAなどの発癌物質や放射線、ウィルス、細菌などによって生体内の1個の細胞が癌化され、それが増殖していくのである。通常の検査で発見されるには数ミリメートルの大きさが必要と言われているので、それまで増殖するには10年程度の年月が必要である。ただし、低濃度であって日常的に発癌物質を体内に摂取する場合は、最初の癌化が起こる確率が高くなってしまう。また、当然長く生きれば、発癌要因に接する回数も増えて癌になる確率も高くなる。高齢者に癌が多発するのは、このような発癌のメカニズムを反映していると言える。したがって、焼き肉や焼き魚が好きで焦げを摂取する機会の多い人は要注意である。

 HCAには図1の分子の他にも類似した形を持つ分子が何種類も存在する。しかし、似たような形をしていてもその発癌性強度は大きく異なる。図1で各化合物番号の下の括弧内に示した数値は、発癌性強度と良い相関を示す変異原性強度である。変異原性強度は、サルモネラ菌にHCAを投与した時に、どれくらい突然変異を起こしやすいかで評価している。前述のように癌は遺伝子の病気なので、遺伝子を損傷して突然変異を起こしやすいほど変異原性は強いことになる。このことはすなわち発癌の最初のステップを起こしやすいかを示していることになる。図1の4つの分子は構造(形)が良く似ているにもかかわらず、変異原性強度は大きく異なる。このことはどのように説明できるだろうか?もしもこのことが説明できれば、発癌の詳しい機構を考える上に大きく役立つし、また、新しいHCAに対しても分子の形から発癌性強度を推定できることになる。

 私達の研究室では、発癌性強度の違いは分子の反応性による違いを反映していると考えてみた。そして、発癌性強度に深く関係する反応性の違いを説明する簡単な指標がないかを調べてきた。ここで言う「簡単な指標」とは汎用の計算ソフトで計算して得られる量をイメージした。これまでは分子単独について計算し、それより得られる量を用いてきた。しかし、発癌性強度の違いを合理的に説明することができなかった。例えば、生体内に入ったHCAは遺伝子DNAを直接攻撃することはなく、生体の酵素などの作用でより反応性の高い状態になっていく(代謝活性)。HCAは最初に酸化されることが知られているので、酸化されやすいほど活性化しやすいと考えられる。そこで、13種類のHCAに対して酸化されやすさの目安としてHOMOエネルギーEなる量を計算して、発癌性強度Mとの相関を調べてみた。その結果を図2に示す(横軸に発癌強度の対数をとった理由は後述する)。一部の発癌性の強いHCA(図1の4種など)については、期待どおりMが大きいほどEも大きくなっている。しかし、全体的な相関は良くない。したがって、HOMOエネルギーEは発癌性強度を判定する「指標」としては不適当である。他にもいくつかの計算値で試してみたが、単独のHCAで考える限りはいずれも満足できる相関が得られなかった。

HCA類の発癌性強度とHOMOエネルギー
図2 HCA類の発癌性強度とHOMOエネルギー

 今回、研究室の大学院生である山上三郎さんがその問題に精力的に取り組んでくれた。今までうまく行かなかった原因は分子単独で計算したことにあるのではないかと考え、より生体内の環境に近づけた形で計算してみることにした。すなわち、3塩基対からなるDNAモデルをつくり、それにHCAを結合させて計算してみたのである。そして、HCAがDNAに結合しやすいかどうかを「指標」にすることにした。その結果が図3である。相関は格段に良くなった。横軸には発癌性強度の対数を取ってあるが、それは結合反応の遷移状態が関係しているためである。実際、ある仮定の下で、log M とEとの間に直線関係が成り立つことを導くことができた。

 以上より、発癌性が未知の化合物であっても、その形が与えられればその発癌性をおおよそ評価できる可能性が出てきた。現在、PM 2.5に含まれている他の物質群についても同様な計算を進めている。「分子の形で発癌性を予測する」それが毎年恒例の初夢であるが、今年は少しだけ前進させることができそうである。願わくは、「地球のうなずき」と言えるまで。

HCA類の発癌性強度とDNA結合エネルギーの相関
図3 HCA類の発癌性強度とDNA結合エネルギーの相関

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