理学部生物学科

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ストレスと脳

はじめに

 大学受験や人前でのスピーチを目前に控えているときは、多少なりとも冷静さを失って不安を抱くでしょう。プレッシャーを感じると思考能力が鈍ったり、思考が停止してしまったりする場合もあります。この状態は、「緊張する」、「あがる」、「頭が真っ白になる」、「凍りつく」、「パニックになる」、最近では「テンパる」などと表現され、誰しも経験することです。これまでの生物学的知識では、ストレスを受けると脳の底部にある進化的に古い視床下部が反応して、下垂体と副腎からのホルモン分泌が促進され、心拍数の増加、血圧の上昇、食欲の低下などが生じると理解されています。これらの変化は、脳に生じる原始的な反応であるといえます。

ストレスと前頭前野

 最近、ストレスは霊長類で最も発達している大脳皮質前頭前野(前頭前野:図1)にも影響を及ぼし、高度な精神機能を奪ってしまうことが分かってきました。ストレスは、感情や衝動を抑制している前頭前野の支配力を弱めるため、視床下部などの進化的に古い脳領域の支配が強まった状態になり、不安を感じたり、普段は抑え込んでいる衝動(欲望にまかせた暴飲暴食や薬物乱用、お金の浪費など)に負けたりするというのです。
 前頭前野は脳の中で進化的に最も新しく、高度に進化した領域です。ヒトでは大脳皮質の約1/3を占めています。この領域は他の脳部位よりゆっくりと成熟し、20歳代になってようやく完成します。前頭前野には抽象的な思考に関わる神経回路があり、集中力を高めて作業に専念させる役割を果たすとともに、ワーキングメモリー(計算をする場合などに情報を一時的に記憶すること)として働きます。また、精神の制御装置としての役割を担っており、状況にそぐわない思考や行動を抑制しています。このような働きによって、集中や計画、意思決定、洞察、判断、想起などができるのです。
 この神経の高次中枢は、三角形をした錐体細胞という神経細胞同士が接続した大規模なネットワークを介して働きます。錐体細胞は、感情や欲求、習慣を制御する脳領域とも接続しています。このネットワーク内の回路は、日々遭遇する不安や心配に対して敏感に反応し、非常に脆弱であることが分かってきました。ストレスがかかると、脳全体に突起を伸ばしている神経からノルアドレナリンやドーパミンなどの神経伝達物質が放出されます(図2)。これらの濃度が前頭前野で高まると、神経細胞間の活動が弱まり、やがて止まってしまいます。ネットワークの活動が弱まると、行動を調節する能力も低下します。視床下部から下垂体に指令が届き、副腎がストレスホルモンであるコルチゾールを血液中に放出して、これが脳に届くと事態はさらに悪化します。こうして、自制心はバランスを崩していくのです。
 脳の深部に生じる主な変化としては、まず、ドーパミンが古い脳領域である大脳基底核に到達します。大脳基底核は、線条体(図1)などから構成されており、欲求や情動および運動の調節や運動の記憶に関わっている一連の深部脳構造です。別の古い脳領域である扁桃体(図1)は、ノルアドレナリンとコルチゾールの濃度が高まると、危険に備えるよう他の神経系に警告を発したり、恐怖などの情動に関わる記憶を強めたりします。

ストレスに対する脆弱性

 ヒトを対象とした研究により、ストレスに対する脆弱性は遺伝的背景や過去のストレス経験などが原因であることが分かっています。ドーパミンとノルアドレナリンによって高次認知に必要な前頭前野の回路が停止しても、通常はこれら神経伝達物質の分解酵素が働くため、機能停止は長くは続かず、ストレスが軽減すれば元の状態に戻ります。しかし、遺伝的にこれらの酵素の力が弱い人はストレスに弱いようです。さらに、慢性的なストレスにさらされると、扁桃体の樹状突起(神経細胞から枝状に伸びて信号を受け取っている突起)が拡大する一方、前頭前野の樹状突起は萎縮します。ストレスがなくなれば、前頭前野の樹状突起は再生しますが、ストレスが非常に強い場合には回復能力が失われます。前頭前野の萎縮は、過去のストレス体験と関連していることも分かってきました。ストレスによる脳内変化が生じると、以後のストレスに対してさらに脆弱になり、うつ病や依存症、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの不安障害につながると考えられています。

ストレス研究の課題

 「ストレスがどのように前頭前野の自己制御領域を変化させるのか」についてはまだよく分かっていません。現在、ノルアドレナリンやドーパミン以外の神経伝達物質の作用についても研究が行われています。例えば、うつ病患者の脳ではセロトニンレベルが低下していることから、セロトニンが前頭前野に作用(図2)してストレスと不安を調節している可能性が解析されています。しかし、ヒトを対象とした実験の場合には特に倫理基準が厳しいため、被験者に不安をかきたてるような映画を見せたり、自身の強いストレス経験を思い浮かべてもらったりして、ストレスの影響をシミュレートする方法がとられていますが、脳の高次機能を対象とすることから、一つの事象を明らかにするのは非常に困難です。
 「なぜ脳が最も高度な認知機能を弱めるようなメカニズムをもっているのか」という疑問についても未だ答えは得られていません。このメカニズムが進化の過程で獲得されたものであることを考えると、こうした原始的な反応が外敵からヒトの命を救ってきたのかもしれません。脳の高次機能のネットワークが働かないとき、原始的な脳の経路が私たちの動きを止めたり、逃げる準備をさせたりするメカニズムは、現代社会でも危機に直面する際に必要かもしれません。ただし、この状態が長く続くと、前頭前野の機能は弱まってしまいます。
 また、ストレスに応答することが知られている脳内因子の他にも重要な因子が存在する可能性は否定できません。我々は最近、動物にストレスを負荷した後、44,000種類の遺伝子発現を解析した結果、脳と血液の両方から、新たにストレスに応答因子候補を複数みつけています。現在、それらの機能を調べるとともに、ヒトの血液解析を行っています。

ストレス研究の意義

 脳のストレス応答を明らかにすることは、生物学的に興味深い課題であると同時に、脳の働きを正常に保つ方法の開発に役立つでしょう。例えば、避難訓練は生き残りに必要な反射的な反応を脳に教え込むことであると考えることが出来ます。心理的制御の感覚を一度習得すると、ストレスを感じた際に動揺しなくなるでしょう。そして、人前で話すことが快いものになれば、聴衆の前で自信満々でいられます。実際、幼少期に軽度のストレスに直面して何度もうまく乗り越えた経験がある動物は、ストレス対処能力に優れた個体に育つことが明らかにされています。ヒトの研究でも、困難な状況への対応に成功した経験は立ち直る力を強め、対処につまずいた場合は成長してからストレスの重荷や落ち込みやすさを感じやすくなると報告されています。
 ストレスによるさまざまな障害の治療法に関する研究・開発も進められています。例えば、ノルアドレナリンの作用を妨げる薬剤によって前頭前野のネットワークを強めると、障害が抑制されることが分かってきました。さらに、休養や深呼吸、瞑想などによる対処法でストレス反応を抑えられることも多くの研究者によって示されています。我々も最近、コーヒー豆やラベンダーなどの香りがストレス抑制効果をもつことを科学的に証明しています(生物学の新知識, 2010年7月)。また、我々がみつけたストレス応答因子候補がヒトの血液で証明できれば、血液解析でストレスレベルの客観的評価が可能になります。健康診断でストレスレベルを計測することは、精神障害の予防につながります。

おわりに

 脳がどのようにストレスに反応するのかについて学んでおくと、自分の行動を自分でコントロールできるという感覚が高まるかもしれません。今度テストを受けるときや人前で話すときに緊張した場合、「私の脳が、私を危機から救おうとしている。」と自分に言い聞かせてみて下さい。落ち着きを取り戻して、能力を最大限発揮できるようになるでしょう。

神経科学研究室
増尾好則

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